趙廞の乱
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300年11月、益州刺史の趙廞は密かに蜀の地で独立しようと目論み、かつてこの地に割拠した劉氏(蜀漢)に倣い、官庫の食糧を流民達へ振舞って人心掌握に努めた。李特兄弟は武勇に優れ、配下の者は巴西の出身で趙廞とは同郷であった為、趙廞は特に彼らを厚遇して自らの側近とした。李特は趙廞の後ろ盾を得ると、食糧を得る為に流民達をかき集め、強盗紛いの行為をするようになった。その為、蜀の人は彼らを甚だ恨んだ。 趙廞は反乱を起こすと、成都内史耿滕を攻撃して彼を殺した。さらに、西夷校尉陳総へ兵を差し向けると、これも討伐した。その後、趙廞は大都督・大将軍・益州牧を自称し、独断で役人を配置し、太守や県令を入れ換え、太平元年と改元した。李特の弟である李庠は趙廞の腹心となり、流民1万人余りの勇士を統率して北道を遮断する任につくと、李特もこれに付き従った。 301年1月、趙廞は李庠が勇猛であり強兵を率いていたのを恐れるようになり、理由をつけて彼を誅殺し、その子や宗族30人余りを処刑した。李特は李流と共に兵を率いて北道封鎖を続けていたので、趙廞は李特らが反乱を起こすことを恐れ、使者を派遣して「李庠は人臣として言ってはならないことを口にした為に死罪となった。だが、この罪は兄弟には及ばない」と諭した。また、李庠の屍を李特の下へ返還し、李特と李流を督将に任じて慰撫した。だが、李特は趙廞を甚だ怨み、これに従わずに兵を率いて綿竹へ帰った。趙廞は長史費遠・犍為郡太守李苾・督護常俊らに1万人余りの兵を与え、北道の封鎖を継続させた。彼らは綿竹の石亭に拠点を築いた。 李特は密かに七千人余りの兵を集めると、費遠の陣営を夜襲した。費遠軍は大敗を喫し、放火により陣営は焼き払われ、八・九割の兵が戦死した。李特はそのまま成都を目指して進撃した。趙廞はこれを聞くと、大いに恐れて為す術を知らなかった。費遠・李苾・軍諮祭酒張微は夜の間に逃亡し、文武百官は離散した。趙廞は妻子とともに小船に乗って広都まで逃げたが、従者の朱竺に殺害された。 李特は成都に入城すると、兵を放って略奪を許可し、西夷護軍姜発を殺害した。更に長史袁治を始め、趙廞の任じた官吏を誅殺した。また、牙門王角と李基を洛陽へ派遣し、趙廞の罪状を陳弁させた。
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