趙廞の乱とは? わかりやすく解説

趙廞の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 04:36 UTC 版)

李特」の記事における「趙廞の乱」の解説

300年11月益州刺史趙廞密かに蜀の地で独立しよう目論み、かつてこの地に割拠した劉氏蜀漢)に倣い官庫食糧流民達へ振舞って人心掌握努めた李特兄弟武勇優れ配下の者は巴西出身趙廞とは同郷であった為、趙廞は特に彼らを厚遇して自らの側近とした。李特趙廞後ろ盾を得ると、食糧を得る為に流民達をかき集め強盗紛い行為をするようになった。その為、蜀の人は彼らを甚だ恨んだ趙廞反乱を起こすと、成都内史耿滕を攻撃して彼を殺した。さらに、西夷校尉陳総へ兵を差し向けると、これも討伐した。その後趙廞大都督・大将軍益州牧を自称し独断役人配置し太守県令入れ換え太平元年改元した。李特の弟である李庠趙廞腹心となり、流民1万余り勇士統率して北道遮断する任につくと、李特もこれに付き従った301年1月趙廞李庠勇猛であり強兵率いていたのを恐れるようになり、理由をつけて彼を誅殺し、その子宗族30人余り処刑した李特李流と共に兵を率いて北道封鎖続けていたので、趙廞李特らが反乱を起こすことを恐れ使者派遣して李庠人臣として言ってならないことを口にした為に死罪となった。だが、この罪は兄弟には及ばない」と諭したまた、李庠の屍を李特の下へ返還し李特李流を督将に任じて慰撫した。だが、李特趙廞甚だ怨み、これに従わずに兵を率いて綿竹帰った趙廞長史費遠・犍為郡太守苾・督護常俊らに1万余りの兵を与え北道封鎖継続させた。彼らは綿竹の石亭に拠点築いた李特密かに千人余りの兵を集めると、費遠の陣営夜襲した。費遠軍は大敗喫し放火により陣営焼き払われ八・九割の兵が戦死した李特そのまま成都目指し進撃した趙廞はこれを聞くと、大い恐れて為す術知らなかった。費遠・苾・軍諮祭酒張微は夜の間に逃亡し文武百官離散した趙廞妻子とともに小船乗って広都まで逃げたが、従者竺に殺害された。 李特成都入城すると、兵を放って略奪許可し西夷護軍姜発を殺害した。更に長史袁治を始め趙廞任じた官吏誅殺した。また、牙門王角と李基洛陽へ派遣し趙廞罪状陳弁させた。

※この「趙廞の乱」の解説は、「李特」の解説の一部です。
「趙廞の乱」を含む「李特」の記事については、「李特」の概要を参照ください。

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