羅尚と対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 04:36 UTC 版)
趙廞の乱が鎮まると、朝廷は羅尚を平西将軍・領護西夷校尉・益州刺史に任じた。羅尚は牙門将王敦(東晋の王敦とは別人)・上庸都尉義歆・蜀郡太守徐倹・広漢郡太守辛冉を初め七千人余りを伴い、蜀へ出発した。 李特らは羅尚の到来を聞くと非常に不安になり、弟の李驤を派遣して彼を出迎えさせ、珍品宝物を貢いだ。羅尚は大いに喜んで李驤を騎督に任じた。また、李特は李流と共に牛肉や酒を携えて綿竹に出向き、羅尚を慰労した。王敦・辛冉は共に羅尚へ「李特らは流民であり、盗賊を業としておりました。急ぎ除かなくてはなりません。何か理由を見つけて処刑するべきです」と説いたが、羅尚はこの進言を容れなかった。辛冉は李特と古くからの知り合いであり、李特へ「旧知の仲がこうして会うのは、吉ではない。まさしく凶である」と言い放った為、李特は大いに恐れ警戒するようになった。 同年3月、羅尚は成都へ入城した。朝廷は益州にいる流民達を秦州・雍州へ連れ戻す様通達を出し、彼らを監督させる為、御史馮該と張昌を派遣した。李特の兄の李輔はもともと郷里の略陽に留まっていたが、李特らを迎えに行くことを口実に蜀に入り、李特へ「北は大いに乱れており、帰還する意味はない」と忠告した。李特は深く同意し、巴蜀の地に割拠する意志を持つようになった。李特は配下の閻式を羅尚の下へ幾度も派遣し、帰郷を秋まで延期するよう求めた。さらに、羅尚と馮該に賄賂を送ったので延期は許可された。朝廷は趙廞を討伐した功績により、李特を宣威将軍・長楽郷侯に任じ、李流を奮威将軍・武陽侯に任じた。又、益州政府に命じて、六郡の流民で李特と共に乱の鎮圧に当たった者を列挙させ、封賞を加えようとした。辛冉はこれを不満に思い、趙廞を滅ぼした功績を自らのものとしようとして、流民達の活躍を上言しなかった。その為、流民達は皆これを怨んだ。 辛冉は貪欲・乱暴な性格であり、流民の首領を殺してその資財を奪おうと目論み、李苾と共に羅尚へ「流民共は趙廞の乱に乗じて略奪を行いました。関所を設けてこれを取り返すべきです」と進言した。羅尚はこれを受け、梓潼郡太守張演に手紙を送り、秦州や雍州に帰る途中の要所に関所を設けて流民の財産を調べさせた。 しばらく経ち、羅尚は従事を派遣して流民達へ7月までに故郷へ帰るように勧告した。李特は再び閻式を派遣し、秋の収穫が終わるまで退去の期限を延長してもらうよう固く要請した。しかし、辛冉と李苾がこれに反対した。別駕杜弢は流民の帰郷を一年待つよう進言したが、羅尚は辛冉らの意見に賛同した。杜弢はかつて羅尚により秀才に推挙されたが、その時の推薦書を返上すると、辞職して家に帰った。 当時、流民の多くは梁州や益州で力仕事に従事しており、州郡が自分達を追い返そうとしていると聞くと大いに怨んだが、皆どう対処していいか分からなかった。また、ちょうど大雨が降り続いていたので帰る手段もなく、まだ穀物も実っていない時期であった為に食糧も無かった。李特兄弟が自分達の為に請願していることを知ると、皆感動してこれを頼みとし、李特の下に集まるようになった。 そこで李特は綿竹に大きな陣営を築き、行き場のなくなった流民を保護した。そして、辛冉へこの事について寛大な措置を請うた。だが、辛冉はこれに激怒し、人を派遣して街道に立札を掛け、李特兄弟の首に重い懸賞金をかけた。李特はこれを知ると大いに驚き、立札を全て持ち去ると李驤と共に内容を改変し「六郡の豪族である李・任・閻・趙・楊・上官及び氐族・叟族の侯王の首一つを送れば絹百匹を与えよう」と書き換えてから立て直した。流民達はこの立札を見ると驚愕し、尽く李特に助けを求めた。1月もしないうちにその数は2万を超え、李流の下にも数千の民が集まった。 李特はまたも閻式を羅尚のもとに派遣し、期日を延ばすよう頼んだ。羅尚はこの時、流民達へ寛大な処遇をするよう考えており、閻式へ流民達を落ち着かせるよう伝えた。だが、辛冉が要所に囲いを設けて流民を捕らえる準備をしていたので、閻式はこれを見ると大いに嘆いた。閻式は綿竹に戻ると、李特へ「羅尚は寛大な対応を取ると言いましたが、信じ切ってはいけません。なぜなら、羅尚には威厳が無く、刑罰を明確にしていない為、辛冉らが強兵を独占しております。一度変事が起これば、羅尚には事態を収拾できないでしょう。十分に備えをしておくべきです」と言い、李特は同意した。
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