李特の下で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 04:36 UTC 版)
幼い頃より学問を好み、弓馬の扱いに長けていた。東羌校尉の何攀は、李流を賁育(孟賁と夏育)の勇があると称賛し、東羌督に任じた。 296年、氐族の斉万年が晋朝に反乱を起こすと、略陽・天水を初め6郡の民は食糧を求めて益州へ避難した。李流も兄弟と共に益州へ移った。途中、病気や飢餓に苦しむ者が数多くいたが、李流らはよくこれを援助し、その者たちを保護した為、大いに人望を得た。 益州に避難すると、益州刺史趙廞は彼を人並み外れた器であると称賛した。李流と彼の兄弟は武勇に優れており、配下の者は巴西の出身で趙廞とは同郷であった為、趙廞は彼らを厚遇し、自らの爪牙とした。 302年1月、趙廞が乱を起こすと、兄の李庠は腹心となり、流民の中から1万人余りの兵を束ねた。この時、李流も郷里の子弟を招いて数千人を集めた。 後に、趙廞は李庠の勇名を恐れ、呼び出して誅殺した。李流は兵を率いて李特と共に北道封鎖を行っていたが、趙廞は李特と李流が反乱を起こすことを恐れ、使者を派遣して「李庠は人臣として言ってはならないことを口にした為に死罪となった。だが、この罪は兄弟には及ばない」と諭した。また、李庠の屍を李特の下へ返還し、李特と李流を督将に任じ、彼らとその配下を宥めた。だが、李特は趙廞を甚だ怨み、兵を率いて綿竹へ帰り、李流もこれに従って流民を慰撫した。 李特が趙廞討伐の兵を挙げると、李流は常俊を綿竹において破り、そのまま進撃して成都を平定した。朝廷は功績を称えて、李流を奮武将軍に任じ、武陽侯に封じた。 3月、新任の益州刺史羅尚が着任すると、秦州・雍州から避難してきた流民達を追い返そうとした。李特は、綿竹に大きな陣営を築き、行き場のなくなった流民達を収容した。この時、李流の下にも数千の民が集まった。 10月、李特は陣営を二つに分け、李特自身は北営に、李流を東営に留まらせた。李特が羅尚と対立するようになると、李流を行鎮東将軍・東督護と名乗らせ、東営の流民を指揮させた。李特は常に精鋭を李流に率いさせ、羅尚と対峙させた。 李特軍は戦況を有利に進め、李流は軍を進めて成都の北に軍を置いた。弟の李驤は李攀・任回・李恭と共に毗橋に駐軍して羅尚へ備えていたが、羅尚は精鋭一万人余りを李驤攻撃の為に派遣し、李驤の陣営を夜襲した。これにより李攀は迎撃するも戦死し、李驤は将士とともに李流の陣営へ逃げた。李流は李驤の残兵を合わせると、進んできた羅尚軍を迎撃し、大いに破った。羅尚の兵で敗れて帰還できた者は十人のうち一、二人に過ぎなかった。 303年1月、李特が成都少城を陥落させると、年号を建初と定めて自立を宣言した。羅尚は成都大城に籠城し、守りを固めた。李流が進んで江西に駐屯すると、羅尚は大いに恐れ、使者を派遣して講和を求めた。 蜀の人々は大いに李特を恐れ、皆集落を築いて李特へ命を請うた。李特は使者を派遣してこれを安撫し、食糧を供出した。その為、軍中は食糧不足となり、これを解消するために六郡の流民を各地の集落へ分散させた。李流は李特へ「殿下の神武により、小城において勝利されました。ですが、山からの収穫はまで得ておらず、食糧も多くはありません。また、各集落は投降してきたばかりで、未だ人心は安定しておりません。豪族の子弟を人質にとり、広漢の両陣営に移らせ、精強な者を集めて防備を固めておくべきです」と進言した。だが、李特はこれに従わなかった。
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