李熹公とは? わかりやすく解説

李載冕

(李熹公 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/13 16:31 UTC 版)

李載冕
宗親九世
興王
晩年の李載冕
本貫氏派 全州李氏
続柄 興宣大院君の長男
初諱 李載錄
字号 武卿
雅号 又石
爵号 完興君→興王→公
出生年 道光25年7月20日1845年8月22日
出生地 朝鮮国 漢城府安國坊雲峴宮
没死年 明治45年(1912年9月9日(67歳没)
没死地 日本統治下朝鮮 京城府安國町雲峴宮
埋葬 大正9年(1920年
日本統治下朝鮮 京畿道楊州郡和道面倉峴里興親王陵
現墓所 興園
実父 興宣大院君李昰応
実母 驪興府大夫人閔氏
配偶者 洪氏(正室、洪秉周の娘)
李氏(継室、李麟九の娘)
妾1人
子女 李埈鎔
𪣢
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李熹公
在位 明治43年(1910年)8月29日 - 明治45年(1912年)

身位
敬称 殿下
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李載冕
各種表記
ハングル 이재면
漢字 李載冕
発音: イ・ジェミョン
日本語読み: り・さいべん
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李 載冕(り・さいべん、イ・ジェミョン、朝鮮語:이재면、1845年8月22日道光25年7月20日) - 1912年9月9日)は、李氏朝鮮の王族。高宗の兄。興宣大院君の長男。王に封じられた際に李熹(り・き、イ・ヒ、朝鮮語:이희)と改名している。

人物

1845年、大院君の長男として生まれた。李氏朝鮮時代は完興君に封ぜられていた。1864年、試験を経て任官する。1902年に日本に亡命中の長男埈鎔から生活費を求められると支援を行った。1910年8月15日、興王に封ぜられ、李熹と改名した。このため直後の日韓合併後にはの称号を受け、李熹公と呼ばれた。妻は公妃李氏。

死後の評価

2006年、韓国政府設立の親日反民族行為真相糾明委員会によって親日反民族行為者に認定される。

栄典

李熹公妃李氏

系図

完興君載冕の親類・近親・祖先の詳細

脚注

  1. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  2. ^ 『官報』第3411号「叙任及辞令」1924年1月9日。p.54
  3. ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。

李熹公

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李王家」の記事における「李熹公」の解説

李熹公(り・き、イ・ヒ李載冕)は、興宣大院君長男で、高宗の兄。李氏朝鮮時代には完興君に、大韓帝国時代には興親王に封ぜられていた。韓国併合により「公」となった併合後まもなくの1912年大正元年)に死去した。 妃・李氏 - 韓国併合に伴い公妃」となる。

※この「李熹公」の解説は、「李王家」の解説の一部です。
「李熹公」を含む「李王家」の記事については、「李王家」の概要を参照ください。

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