宮内省へ渡った経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 03:45 UTC 版)
1907年(明治40年)宮内省の職務に「天皇及皇族実録の編纂に関する事項」が加わったことで、図書寮では「天皇皇族実録」をはじめとする実録類書の編纂を行っていた。1916年に高宗第七皇子の李垠と日本の梨本宮守正王第一女子の方子女王との祝事(結婚)が決まり、1918年(大正7年)に日本国内で結婚へ向けた納采の儀が執り行われた。また1919年1月には高宗の薨去などもあり、これらから図書寮の図書頭(長官)であった森林太郎(森鷗外)は、同年6月に嘱託員の浅見倫太郎に「王公族実録」の編纂を命じた。 「王公族実録」の編纂には高宗に関する記録のほか、先に亡くなっていた李熹公、李埈公をはじめとする李公家の成員に関する資料が必要であったが、李熹ら一族に関しては、高宗の親族であっても具体的な記録がほとんどなかった。浅見は朝鮮総督府に勤務していた際、李熹の日記が朝鮮にあることを聞き知っていたことから、李王職に問い合わせてみると、李公の日記や辞令などが存在していることが明らかになった。 浅見は李鍝からそれらを借り受ける。また朝鮮総督府に集められ保管されていた朝鮮王朝の行事や冠婚葬祭を記した膨大な記録である「儀軌」を編纂資料として求めた。1920年(大正9年)森林太郎(鴎外)の名で、朝鮮総督府参事官室宛に「朝鮮図書無償譲渡依頼」を出している。新城道彦によれば、宮内次官が総督府に宛てた「儀軌類図書譲渡の件」と記された書類には、資料は膨大な量であり、また細密画を含むため筆写は困難であり、帝国図書として永久保存したい旨が記されている、とされる。一方、宮脇淳子によれば、「あれ(=朝鮮王朝儀軌)は、日韓併合後、精密なコピーを日本の皇室に朝鮮から献上したものなのです」という。こうして「儀軌」は日本へと渡った。
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