宮内省と義光
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離婚が発表された事で世間的な騒動は一段落となるが、華族であり、大正天皇の従妹たる燁子への社会的制裁はこれからであった。宮内省では宮中某重大事件が起きたばかりであり、再び皇室の権威を失墜させる事態として大きな問題となる。燁子の叔母は大正天皇の生母・柳原愛子(二位局)であり、兄・義光は貴族院議員、姉・信子の夫は東宮侍従長の入江為守という宮中の中心部に関わる血縁と姻戚関係が、問題をもつれさせた。義光は燁子の柳原家からの離籍を願い出るが、宮内省は反対し認められなかった。 宮内省官僚である倉富勇三郎が記した日記によれば、まず義光の監督責任と燁子が懐妊している愛人との子供の認知問題、皇室に関わるスキャンダルに対する右翼団体・黒龍会の不穏な動きが問題視される。黒龍会は1922年(大正11年)2月6日の東京日日新聞に「伯爵も大臣も引責せよ」との見出しで声明を出し、「白蓮問題に付内田良平、林重俊氏等は、こは単なる市井の一風教問題でなく、一国倫常の根源を危うする大事」「皇民の性情を一にせる倫常を破壊し、徳教の基礎を危うくするものなるを以て吾人は同憂の士と共に徹底的の解決を遂げ」と非難し、燁子の兄・義光と宮内大臣らの引責辞任を迫った。また内田良平は「燁子を柳原家から離籍する事は狂婦を野に放つようなもの」と述べている。 二位局の心痛も甚だしく、皇室の権威を守るためにも義光の速やかな議員辞職が求められたが、義光は議員の座にしがみつき、「辞めてやるから金をくれ」など数々の放言をして周囲を手こずらせ、顰蹙を買った。燁子の懐妊問題は、華族を監督する宮内省の立場として不義密通の子を認める訳にはいかず、伊藤伝右衛門との婚姻中に孕まれた子である事から、宮内官僚の入江為守や仲介の和田豊治は1922年(大正11年)1月から2月にかけて、伝右衛門に自分の子として認めさせて事を収めようと図るが、伝右衛門は当然怒りこれを拒否している。
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