趙州録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 01:29 UTC 版)
本公案の原典である趙州録では、趙州和尚は、「有る」に対して「無い」と答えているに過ぎない。 ①問う、「狗子にも還(は)た仏性有りや。師云く、「無し」。学云く、「上は諸仏に至り下は螘子(あり)に至るまで、皆な仏性有り。狗子に什麼としてか無き」。師云く、「尹(かれ)に業識性(ごっしきしょう)在るが為なり」。 僧 : 犬にも仏性があるか 趙州 : ないな 僧 : 上は諸仏から下は蟻に至るまで仏性があるのに、どうして犬にはないのか 趙州 : そいつに業識性があるからだ また、趙州録には下記のような「狗子仏性無話」の記述もある。 ②問う、「狗子にも還(は)た仏性有りや。師云く、「家家の門前、長安に通ず」。 ①では、狗子には業識性があるため、一切衆生悉有仏性という涅槃経以来の教義に反して、趙州は「無い」と答える。 一方、②では、同じ問いに対して、すべての門前の道は長安に通じていると説く(仏教学者の秋月龍珉は、「何者も仏性を持たぬものはない」と注している)。 しかし、業識性の有無を無視した場合には、①は迷いの面に焦点をあて、②は悟りの本来性に焦点を当てたものであるため、仏性の有無については同じ思考に基づいていると言える。 このように、趙州録の「狗子仏性無話」は、業識性を含めてこそ意味をもち、「無」だけを取り上げて工夫する公案ではない。
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