稲村ヶ崎の攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 03:11 UTC 版)
大舘宗氏戦死の報を受けた新田義貞は、10万の援軍を率いて極楽寺坂に向かった。5月21日夜、義貞は引き潮に乗じ鎌倉西方の稲村ヶ崎を突破し、鎌倉市内に攻め入った。古典『太平記』には、義貞が潮が引くのを念じて海に剣を投じると、その後潮が引いたので岬の南から鎌倉に攻め入った、と記されている。 この義貞の徒渉突破説は史料としては太平記のみが記述しており、『梅松論』他の複数史料には極楽寺坂での突破と見えるものもある。考古遺跡の発掘により徒渉突破説はいまだ検討の余地があるが、『太平記』の記述に基づけば、義貞は防御の固い極楽寺坂での突破を諦め、18日の大舘宗氏と同じく干潮を利用して稲村ヶ崎を突破したということになる。 この稲村ヶ崎での突破が起点となり、三方の口は破られ、新田勢10万は一気に鎌倉へ突入した。
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