稲村ヶ崎突破と鎌倉攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 05:20 UTC 版)
5月20日夜半、義貞は極楽寺坂方面の援軍として、稲村ヶ崎へと駆け付けた。幕府側の防備は万全の状態で、稲村ヶ崎の断崖下の狭い通路は逆茂木が、海には軍船がそれぞれ配置され、通行する軍勢を射抜けるようになっていた。加えて18日に大舘宗氏が稲村ヶ崎突入に成功したことで、再度の侵入を防ぐためにさらにその防備は厳重となっていた。しかし、5月21未明、義貞率いる軍勢は稲村ヶ崎の突破に成功した。天文学者小川清彦によると、当日の干潮は午前4時15分であり、新田軍はこの頃に突入を敢行したと考えられている。 現在、稲村ヶ崎突破については、干潮を利用して進軍したという認識が広く浸透している。徒渉説は峰岸純夫、山本隆志、大森金五郎らが支持している。『太平記』では、義貞が黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応して潮が引く『奇蹟』が起こったという話が挿入されている。『梅松論』も、義貞の太刀投げにこそ言及していないが、同様に『奇蹟』が起こった事を記述している。龍神が潮を引かせた、という話は脚色とみなされているが、義貞の徒渉とそれに付随した伝説には、様々な解釈がある。山本は太刀投下、龍神祈誓は虚構であろうと述べている。 5月21日の未明に稲村ヶ崎で干潮が生じたことは小川清彦の検証によって証明されている。義貞は幕府御家人として鎌倉に在住することも多く、干潮については把握していてもおかしくは無い指摘される。一方で、稲村ヶ崎を守備する幕府軍も、当然そのことは知悉し、手配していたと考えられる。峰岸純夫は『太平記』や『梅松論』の「不思議」「神仏の加護」という記述から、突発的な地殻変動や地震といった自然現象が起こり、幕府軍の想像を絶する大規模な干潟が出現したのではないかと推量した。 久米邦武は稲村ヶ崎徒渉を虚偽であると断定した。久米は、『和田系図裏書』に所収されている軍忠状を援用して、河内の武士三木俊連が霊山をよじ登り、背後から幕府軍を奇襲し、義貞らが鎌倉に突入する道を開いた、という見解を示した。これに影響を受け、三上参次も干潮虚構説を支持した。 高柳光寿は、『梅松論』にある「石高く道細し」という記述に着目して、干潟を通ったのではなく、山道を通って鎌倉に突入したと解釈した。 また、石井進は、小川清彦の計算記録と当時の古記録との照合から、新田軍の稲村ヶ崎越え及び鎌倉攻撃開始を干潮であった5月18日午後とするのが妥当であり、『太平記』が日付を誤って記しているとする見解を平成5年(1993年)に発表している。 いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は稲生川付近の民家に火を放ち、由比ヶ浜における激戦を繰り広げた(由比ヶ浜の戦い)。新田軍は鎌倉へ乱入し、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させ、鎌倉を蹂躙した。最後の戦場は葛西谷にある北条一族菩提寺の東勝寺に推移し、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく、22日に北条高時らは自害(東勝寺合戦)、鎌倉幕府は滅亡した。5月の生品明神における挙兵からじつに半月という迅速さであった。 『太平記』は、幕府滅亡にあたって、義貞と舅の安東聖秀の逸話を収録している。それによると、義貞の妻は、父である聖秀に勧告状を贈ったが、これを受け取った聖秀は「娘の真意であったとしても、義貞が真の勇士であれば、このようなことをすべきではない」と、憤然としてその書状で太刀を握り、割腹して果てたという。聖秀は鎌倉幕府得宗被官であった安東蓮聖の一族と言われ、義貞が得宗被官との間にパイプを持っていたことを示唆している。またこの逸話について、聖秀という人物が実在したかどうかは不明とされているが、義貞の妻が得宗被官の安東氏の血縁であったことは史料から確実とされている。『太平記』は義貞を勇将として描く一方、義貞に親族の縁を利用して敵を懐柔する狡猾な一面があったことを指摘するためにこのような逸話を収録したとされる。
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