『ある町の高い煙突』
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「日立鉱山の大煙突」の記事における「『ある町の高い煙突』」の解説
日立市営の日立市天気相談所の発足時、那珂湊の気象観測所から所長として山口秀男が赴任した。日立市天気相談所への赴任後、山口は一企業が運営するにはあまりに大規模かつ本格的であったかつての日立鉱山の気象観測網についての疑問を抱いた。調べていくうちに山口は日立鉱山の煙害問題の経過を知り、その中で鉱害問題に被害者側から解決に尽力した関右馬允に出会い、関から煙害問題のいきさつについて聞くことになった。山口の友人には気象の専門家であった作家の新田次郎がいた。新田は日立を訪れた際に旧友の山口から日立鉱山の煙害問題のいきさつを聞き、山口の案内でかつて日立鉱山の気象観測所であり、当時は日立市天気相談所が運営していた神峰山観測所を見学し、日立市天気相談所では日立鉱山から引き継がれた膨大な気象データを見た。さらに山口は新田に関右馬允を紹介した、このような経過を経て小説『ある町の高い煙突』が執筆されることになった。 前述のように昭和30年代以降の高度成長期、目覚しい鉱工業の発展とはうらはらに公害問題に対する対処は後手後手に回っていた。全国各地で公害問題が顕在化し、とりわけ四大公害病は極めて大きな社会問題となっていた。このような中で大煙突の建設に代表されるかつての日立鉱山の鉱害問題に対する取り組みを知った新田は、日立鉱山の大煙突建設を中心テーマとした小説、『ある町の高い煙突』を執筆し、潮出版社の『週刊言論』昭和43年4月3日号から同年10月23日号に連載し、翌1969年(昭和44年)1月には文藝春秋から刊行された。『ある町の高い煙突』の発表後、これまで地元日立でも広く知られていたとは言い難かった大煙突建設のいきさつが一躍世に知られるようになり、公害防止のシンボル、そして日立市のシンボルとなっていった。 『ある町の高い煙突』が刊行された翌年の1970年(昭和45年)には、日立市演劇研究会が『ある町の高い煙突』を演劇にして上演した。この初上演の際に、日立市内の高校教諭が作詩し、幼稚園長が作曲した『ある町の高い煙突』の曲が劇のテーマ音楽として公開され、後に日立市出身の作曲家、宇都宮正人が編曲している。このように小説『ある町の高い煙突』の発表後、大煙突は鉱工業都市日立の象徴としての存在を確固なものとした。
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