匕首腰間鳴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 23:48 UTC 版)
「#倒幕の象徴(1853〜1868年)」も参照 西郷隆盛もまた、「匕首腰間鳴(ひしゅようかんになる)」で始まる五言絶句の漢詩が刻まれた、村正の鉄扇造りの短刀を愛刀としていた。 この短刀は、西郷の三男(後妻・糸子の次男)である午次郎に伝わったもので、本阿弥光遜が大正5年(1916年)に西郷の遺愛刀を調査したときに発見されたものである(『南洲遺愛刀台帳』、大正5年(1916年))。西郷隆盛は村正の大小(打刀と短刀)を所持していたが、打刀の方は幕末に流行った偽村正だった。 短刀は本物で、本阿弥光遜の目利きでは、村正の中でも傑作の部類に入るという。約七寸(約21.2 cm)、諸刃作りで棟の方でも斬れるようになっていて、刃文はぐの目乱れで鋒から折り返して棟側もそのままハバキもとまで続いている。この村正は鉄扇造り、つまり仕込み杖ならぬ「仕込み鉄扇」になっていて、光遜が聞いた話では、若き日の西郷隆盛は常にこの村正を懐中していたという。 鉄扇には、親骨の一つに「匕首腰間鳴蕭々北風起󠄁」、もう一つに「平生壯士心可以照寒水」と計二行で刻まれていた(短刀および鉄扇親骨の押形は『日本刀大百科事典』所載)。字は、藤田東湖に揮毫して貰ったものである(西郷は安政元年(1854年)に東湖を訪ね師と仰いでいる)。詩そのものは、明代の李攀竜(1514–1570年)の漢詩集『滄溟集』にある五言絶句である。 渡易水赠伯承(易水を渡り伯承(李先芳)に贈る) 原文 書き下し文 通釈 匕首腰間鳴 匕首(ひしゅ)腰間(ようかん)に鳴り 匕首(暗殺用の短刀)が腰の傍らで鳴り、 蕭蕭北風起󠄁 蕭々(しょうしょう)として北風(ほくふう)起こる 物寂しく北風が吹き起こる。 平生壯士心 平生(へいぜい)壮士の心 だが、壮士の平常心は、 可以照寒水 以(もっ)て寒水を照らすべし 凍える川すらも照らすことができる。 これはさらに元を辿れば、秦始皇帝に立ち向かった古代中国の義侠荊軻が自らの決死の意気込みを詠んだ詩が原典になっており、江戸幕府に立ち向かう西郷隆盛が荊軻に自らをなぞらえて、自分の持つ村正の短刀を、荊軻が始皇帝暗殺未遂事件に使用した地図仕込みの匕首(ひしゅ、古代中国の暗殺用の短刀)に見立てたものである。 光遜は元々、幕末の志士が村正を愛用したなどというのも妖刀伝説の一つに過ぎず、後世の付会だろうと疑っていた。しかし、本刀を見て、「矢張り流石に豪いものだ」、ここまでの執念がなければ大業は成せないのだ、と感銘を受けたという。
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