江戸潜伏から沼津へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 13:56 UTC 版)
江戸では、藤沢志摩守より、彰義隊の壊滅で江戸が新政府軍の制圧下であることが聞かされ、素六も残党狩りの対象となっていることを聞かされた。四谷安住町の実家に戻った素六は、親への追求を恐れた父源吾より廃嫡とされ家督は弟善次へと引き継がれ、素六は、実家から江戸の中を転々と潜伏しつづけた。この間、阿部邦之助の仲介で榎本武揚と会い、榎本艦隊の脱走に加わるように要請されたが、素六はもはや大勢は決まり、戦闘をするときではないと応じなかった。8月に徳川家が駿河府中移封となり、徳川の家督を徳川慶喜から引き継いだ徳川家達が静岡に移ると、素六は静岡に移るため、小野三介と名を変え、8月19日無禄移住組にまぎれ、徳川家へ帰参するためアメリカ船の第一ニューヨーク号に乗り込んだが、天候が悪く外洋に出たとこで風浪のため下田に避難することとなった。素六の乗っていた第一ニューヨーク号の無縁移住組は、駿河府中藩庁の指示で、沼津、田中(藤枝市)、横須賀(大須賀町)の3グループに分けられ、素六は田中に向かったが、静岡に素六が潜伏していることを察知した政府は、拘束、引き渡しを藩庁に要求したため、藩庁に迷惑をかけないため、素六は小野三介を行方不明という形にし水野泡三郎と名を変え、中泉村竹原(長泉町)の土地の豪農大沼、長倉の両氏に匿われた。10月には、指名手配が解かれたこと藩庁からの連絡で知り、陸軍御用重立取扱に任じられた。明治元年(1868年)12月名を鋳三郎から、素六へと改めた。
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