江戸歌舞伎の宗家として
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「市川團十郎 (9代目)」の記事における「江戸歌舞伎の宗家として」の解説
九代目は、荒事から和事、立役から女形と、幅広い役柄をこなし、舞踊に秀で、その所作も口跡も優れたものだった。『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『勧進帳』の弁慶、『博多小女郎浪枕』の毛剃、『暫』の鎌倉権五郎、『助六所縁江戸櫻』の花川戸助六、『天衣紛上野初花』の河内山宗俊、『侠客春雨傘』の大口屋暁雨、『菅原伝授手習鑑』の菅丞相・松王丸・武部源蔵、『一谷嫩軍記』の熊谷直実、『増補桃山譚』の加藤清正、『伽羅先代萩』の仁木弾正・政岡・荒獅子男之助、『鏡山旧錦絵』の岩藤、『本朝廿四孝』の八重垣姫、『妹背山婦女庭訓』の大判事・お三輪、『鬼一法眼三略巻・菊畑』の鬼一。舞踊では『鏡獅子』『素襖落』など、当り役も数多い。これらの演目のほとんどで、九代目が完成した型が今日の演出の手本となっている。 見た目の派手さよりも内面性を重視した演技で、役になりきるばかりか、その精神までを押さえた写実的な巧さには 多くの逸話や証言がある。一例をあげれば、多くの舞台を同じくした中村鷺助の証言に、五代目菊五郎が殿様役で出ても、あくまで芝居流に頭を下げるが、團十郎が殿様に出て「『皆の者、毎日の出仕大儀ぢやなう』と言葉をかけられると、これは何だか、本当のご主君に礼を言って貰ったやうな心地がして、『ハゝア』と自然に頭が下がる。」というのが残されている。 謹厳実直な性格だが、釣りを唯一の趣味とし、そのために別荘を茅ヶ崎に置いた程である。それでも釣りの服装は白木綿の手甲脚絆に目ばかり頭巾と定め、船中でも背筋を伸ばして釣りをするなど芸の修養として見ていた。船に乗り合わせた弟子たちが思い思いの姿勢で釣りをしていると「針一つ垂れるにも、端座しなければお前たちの姿勢を魚が侮るぜ。舞台に立つ時も同じだ。踊るにも釣りをするにも、その姿がきちんとしていなければ、その芸も魚も君たちの心のままにならないよ。気をつけなさい。」と説教した。晩年はそのほかに猟銃による鳥撃ちも趣味に加わったらしく、茅ヶ崎の別荘に預けられた丑之助時代の六代目菊五郎が、團十郎の猟銃を勝手に持ち出して雁を仕留め、それがばれて大目玉を喰らったが、説教の最後に「ところで、その雁はどこにいた?」と聞かれたという、ユーモラスなおちが伝わっていた。 なお九代目が五代目菊五郎とつとめた『紅葉狩』は記録映画に残され、今日でもその芸を見ることができる。 九代目團十郎と五代目菊五郎はともに1903年(明治36年)に死去した。團十郎の最後の舞台は同年5月の歌舞伎座、福地桜痴作『春日局』の春日局、家康二役。9月13日午後3時15分、持病の腎不全による尿毒症に肺炎を併発し、茅ヶ崎の別荘・孤松庵にて死去。市村家橘の15世市村羽左衛門襲名披露興行が翌10月、歌舞伎座で予定されており、團十郎は口上のほか、「一谷嫩軍記」の熊谷、桜痴の新作活歴「小楠公」に出演予定であったが、ついに再起はならなかった。なお、通夜の際、デスマスク制作がます夫人(1931年没)に許可されなかったため、代わりに急遽、洋画家・長原止水がガラス張りの棺越しに死に顔をスケッチし、それが後日、三木竹二主催の演劇雑誌「歌舞伎」の口絵を飾ったほか、死装束で横たわった團十郎を、五代目菊五郎ほか先に死んだ多くの先輩、後輩、友人、芸界関係者の霊が迎えに来ている構図の「死絵」も発売された。葬儀は川上音二郎が一切を取り仕切り、関係者に感謝された。墓所は青山墓地にある。
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