行田音頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:53 UTC 版)
「行田音頭」は、昭和恐慌の影響が行田足袋産業にも及び、足袋職人の賃金引き下げや労働争議など不景気の暗雲が垂れ込めていた1934年(昭和9年)9月4日に、その不景気を払拭することを願い発表された。1933年(昭和8年)に「東京音頭」が、1934年(昭和9年)には「さくら音頭」が一世を風靡していたことに倣い、行田足袋を天下に宣伝し不景気風を払拭するには「行田音頭」しかないと、当時の忍町町長高木駿と行田商工会が発案したもので、忍町出身で多額の経済支援を郷里に行っていた大澤龍次郎(後の名誉市民)に協力を要請、すべての費用を大澤が出資して実現した。作るなら一流のものをとの考えから、作詞と作曲は「東京音頭」を作詞作曲した西条八十(作詞)、中山晋平(作曲)が手掛け、小唄勝太郎と三島一声が歌唱し、翌1935年(昭和10年)4月にはビクターが制作したレコードが発売された。 「行田音頭」には、足袋、忍の城あと、新兵衛地蔵、秀衡松、沼干といった当時の行田の風物詩が多数登場するが、なかでも足袋は「足袋の行田を想い出す」「待てど紺足袋気も白足袋を 誰が穿くやら気にかかる」と歌いこまれ、行田足袋の宣伝歌となった。完成の翌年には忍東照宮の春の大祭で奉納行田音頭競技大会が開かれるなど、行田の人々に広く歌い踊り継がれる風俗となった。やがて、足袋産業の衰退とともに「行田音頭」の歌詞を知る人も減少したことから、これを惜しんだ大澤龍次郎により、行田音頭の発表30周年を記念した1953年(昭和38年)11月26日、水城公園に行田音頭の10番まである全歌詞を刻んだ「行田音頭の碑」が建立された。 「行田音頭」はその後、歌詞に織り込まれたまちの風景が変わりゆくのにあわせて歌詞を変更・編曲した「新・行田音頭」が1996年(平成8年)に誕生したことにより歌われることは少なくなっていたが、2017年(平成29年)に結成された「行田音頭保存会」の取組により、小学校での「行田音頭」継承が試みられている。
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