恐慌の余波
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1907年の恐慌が起こった時期は、全米経済研究所によると1907年5月から1908年6月までの長期にわたる景気後退の最中であった。金融恐慌と証券市場の暴落という、相互に関連する景気収縮によって経済は大きなダメージを受けた。工業生産は、それまで発生したどの取り付け騒ぎの後よりも落ち込んだ。その当時までで過去2番目に多くの企業が倒産し、1907年5月から1908年6月の間総生産高は5%減、輸出量はマイナス26%と大幅に下落した。3%以下だった失業率は8%まで上昇し、1907年までに120万人であった移民人口は2年後の1909年には75万人にまで減った。石炭の生産量は1907年428.9百万トンから1908年371.3百万と13.4%下落、鋼鉄の生産量は1907年23.36百万トンから1908年14.2百万トンへと40%も減少し、重工業生産品の低下率はこの年までに発生した他の恐慌よりも深刻であった。 南北戦争の終結以降、合衆国はさまざまな程度の恐慌を経験してきた。経済学者のチャールズ・カロミリスとゲイリー・ゴートンは、多数の銀行が営業停止に追い込まれた恐慌の例として1873年恐慌、1893年、1907年そして1914年の恐慌をあげている。1884年、1890年と1896年にも経済危機が発生したが、1884年と1890年の恐慌では広い範囲にわたる営業停止は未然に防がれた。また、1896年の金融危機については、議論のあるところではあるが、恐慌のひとつとして分類される場合もある。 19世紀末から20世紀初頭にかけて危機が頻発していたことと、1907年の金融恐慌でモルガン個人の果たした役割が際立ったものであったことが、一方では懸念を生み、金融関係者のみならず一般市民からも金融改革が不可避であるという論争との声があがった。1908年5月、オルドリッチ=ブリーランド法が議会を通過し、恐慌の調査と金融業を規制する法案を提言することを目的として国家金融委員会が設立された。ネルソン・オルドリッチ上院議員(ロードアイランド州選出、共和党)は、エドワード・ブリーランド下院議員と共に委員会の共同議長を務め、大陸の銀行システムを学ぶため約2年間欧州に滞在した。
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