「独墺関税同盟」事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:08 UTC 版)
「アンシュルス」の記事における「「独墺関税同盟」事件」の解説
1920年代のオーストリアはキリスト教社会党を率いるイグナーツ・ザイペル(イエズス会聖職者)と同党の支持を受けた官僚のヨハン・ショーバー(ドイツ語版)(元ウィーン警察長官)の2人の指導者が、交互に政権を交代しながら、オットー・バウアー率いるオーストリア社会民主党と対峙するという時代が続いた。世界恐慌の余波を受けた総選挙で社会民主党が台頭し、弱体したキリスト教社会党政権で外相として入閣していたショーバーはドイツとの関税同盟(輸出入関税の廃止)によってドイツとオーストリアを一体とした経済圏とすることでこの危機を乗り越えようと考え、ドイツ側の了承も得て秘密交渉を続けていた。 1931年3月、このニュースが新聞によって洩らされると、国内ではオーストリア政府と敵対する社会民主党や護国団までが賛同の意思を表明するなど、支持が広がった。しかしジュネーヴ議定書4ヶ国のうち、フランス・イタリア・チェコスロバキアがこれを「経済的な合併」、即ち実質的なアンシュルスと見なして議定書違反であると抗議した。オーストリアとドイツは合併ではなくリヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの唱えた「汎ヨーロッパ主義」に基づくものと反駁した。この問題は国際連盟の理事会や国際司法裁判所に諮られることとなったが、それ以前にフランスが大規模な経済制裁を発動し、これがきっかけに5月8日オーストリア最大の銀行である「クレジット・アンシュタット」が破綻した。これがヨーロッパにおける恐慌を一層激化させることを恐れた他のヨーロッパ諸国の奔走によって、3億シリングの追加借款案が提案され、その結果9月3日ショーバーは同盟交渉の断念を発表したのである。 だが、この結果ショーバーはこの混乱下で社会民主党や護国団を加えた挙国一致内閣を組織しようとして失敗したザイペルとともにキリスト教社会党の保守派から糾弾を受けて失脚してしまった。代わってキリスト教社会党の指導的立場にたったのは、ザイペルの直弟子を自称する若きエンゲルベルト・ドルフースであったが、社会民主党が関税同盟交渉の失敗を政府の弱腰外交に帰したために2大政党の関係はもはや修復不能の状態となり、新たな勢力であるナチズムの台頭を促すことになった。 イグナーツ・ザイペル ヨハン・ショーバー(ドイツ語版) オットー・バウアー
※この「「独墺関税同盟」事件」の解説は、「アンシュルス」の解説の一部です。
「「独墺関税同盟」事件」を含む「アンシュルス」の記事については、「アンシュルス」の概要を参照ください。
- 「独墺関税同盟」事件のページへのリンク