初期の参戦(1906年 - 1908年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「初期の参戦(1906年 - 1908年)」の解説
メルセデス・140PS(1908年フランスGP、ラウテンシュラガー車) ベンツ・120PS(1908年フランスGP、エメリ車) ダイムラー(メルセデス)は第1回大会から参戦し、最初の2年(2レース)は平凡な成績に終わり、新規定が導入された第3回大会・1908年フランスグランプリ(英語版)を迎える。 新規定に合わせて新たなエンジンを設計するにあたって、マイバッハは設計を巡って起こった対立から1907年4月にダイムラーを去った。そのため、設計はマイバッハの後任として技術部長に任命されたパウル・ダイムラーが手掛けた。 このレースにおいてダイムラーが投入したメルセデス・140PSの速さは圧倒的で、オープニングラップからオットー・ザルツァーが1周の平均時速126.5㎞という当時としては驚異的なファステストラップを記録し、チームメイトであるクリスティアン・ラウテンシュラガーがメルセデスにとってのグランプリ初優勝を遂げる。 一方、ベンツはこのレースのためにベンツ・120PSを用意し、グランプリ初参戦にもかかわらず、2位と3位を占めてメルセデスに続いた(ドライバーは2位ヴィクトル・エメリ、3位ルネ・アンリオ)。そうして、フランス車とイタリア車が強かったそれまでの2大会とは一転して、上位をドイツ車が占める結果となった。 しかし、この年のヨーロッパを襲った景気後退(1907年恐慌の余波)により、年末にルノーがグランプリからの撤退を発表する。他社も景気後退の影響を受け、ダイムラーとベンツもフランスの自動車メーカーの大部分と歩調を合わせ、自動車メーカーとしての参戦(ワークス参戦)を1909年から1912年までの間は自粛するという取り決めを交わして活動自粛を決定する。ACFグランプリ(フランスグランプリ)自体も1909年と1910年は開催されないことになった。 1909年から数年はプライベーターへの支援のみを行うこととなったが、小改良が重ねられた1908年型メルセデスとベンツはしのぎを削りつつ活躍を続けることとなる。
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