初期の参戦とは? わかりやすく解説

初期の参戦(1906年 - 1908年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 14:45 UTC 版)

モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「初期の参戦(1906年 - 1908年)」の解説

メルセデス・140PS(1908年フランスGP、ラウテンシュラガー車) ベンツ・120PS(1908年フランスGPエメリ車) ダイムラーメルセデス)は第1回大会から参戦し最初2年(2レース)は平凡な成績終わり新規定が導入され第3回大会1908年フランスグランプリ英語版)を迎える。 新規定に合わせて新たなエンジン設計するにあたってマイバッハ設計巡って起こった対立から1907年4月ダイムラー去った。そのため、設計マイバッハ後任として技術部長に任命されパウル・ダイムラー手掛けた。 このレースにおいてダイムラー投入したメルセデス・140PSの速さ圧倒的で、オープニングラップからオットー・ザルツァーが1周の平均時速126.5という当時としては驚異的なファステストラップ記録しチームメイトであるクリスティアン・ラウテンシュラガーメルセデスにとってのグランプリ初優勝遂げる。 一方ベンツはこのレースのためにベンツ・120PSを用意しグランプリ初参戦にもかかわらず2位3位占めてメルセデス続いたドライバー2位ヴィクトル・エメリ3位ルネ・アンリオ)。そうして、フランス車イタリア車強かったそれまでの2大会とは一転して上位ドイツ車占め結果となった。 しかし、この年ヨーロッパ襲った景気後退1907年恐慌余波)により、年末ルノーグランプリからの撤退発表する他社景気後退影響を受け、ダイムラーベンツフランス自動車メーカー大部分歩調合わせ自動車メーカーとしての参戦ワークス参戦)を1909年から1912年までの間は自粛するという取り決め交わして活動自粛決定するACFグランプリフランスグランプリ自体1909年1910年開催されないことになった1909年から数年プライベーターへの支援のみを行うこととなったが、小改良重ねられ1908年メルセデスベンツはしのぎを削りつつ活躍続けることとなる。

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