初期の化学者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/24 00:25 UTC 版)
「en:Alchemy (Islam)」も参照 近代の科学的方法の発達は遅々としてなかなか前進をみなかったが、化学に関する科学的方法の萌芽は中世イスラム教徒の化学者の間に現れ始め、これを先導したのが「多くのものが化学の父とみなす」9世紀の化学者ジャービル・イブン=ハイヤーン(ゲベルス)であった。彼はアランビック(蒸留器)を発明・命名、数多くの化学物質を化学的に分析、宝石職人 (lapidary) を集め、アルカリと酸を弁別、数多くの薬を製造した。 その他有力なイスラム教徒の化学者には、アリストテレスの四元素説を批判したジャアファル・サーディクとラーズィー (Muhammad ibn Zakarīya Rāzi)、また錬金術の実践と金属変性の理論で名声を博したキンディー、アブー・ライハーン・アル・ビールーニー、イブン・スィーナー、イブン=ハルドゥーン、および物質本体は変化しうるが消滅し得ないとして質量保存の原型を記述したナスィールッディーン・トゥースィーらがいる。 ヨーロッパの比較的正直な医者にとって錬金術とは知的営為であり、時を経て熟達した。一例としてパラケルスス(1493年 - 1541年)は化学と医療の理解が曖昧ながらも四元素説を斥け、イアトロ化学(医療化学)(iatrochemistry) と呼ばれる錬金術と科学のハイブリッドを形成した。ところで、パラケルススによる実験が真に科学的であったとはいい難い。たとえば、新しい化合物が水銀と硫黄の組み合わせでできうるという自身の説の延長として、彼は『硫黄油』なるものを作り出したが、これは実はジメチルエーテルであり、水銀でも硫黄でもない。 ロバート・ボイル(1627年 - 1691年)は錬金術用の近代科学的方法を見直し、錬金術と化学の距離を広げたとみられている。ロバート・ボイルは原子論者だったが、原子の呼称として "atom" よりも "corpuscle" という語を好んだ。物質がその特性を維持しうる最小部分は原子(corpuscles)のレベルであると彼は述べている。 ボイルはボイルの法則で特記される。彼はまた記念碑的出版物『懐疑的化学者』(The Sceptical Chymist)でも特記され、ここで彼は物質の原子説を発展させようとしたものの成功には至らなかった。これらの前進にもかかわらず、『近代化学の父』と賞賛されるのは1789年に質量保存の法則(またはラボアジエの法則)を発見したアントワーヌ・ラヴォアジエである。これにより化学は定量的性質をもち信頼できる予測が立てられるようになった。
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