初期の動きとフェンロー条約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 20:29 UTC 版)
「第五次イタリア戦争」の記事における「初期の動きとフェンロー条約」の解説
フランスはすぐ二手に分かれて作戦を開始した。北ではオルレアン公がリュクサンブールを攻撃、短期間占領した。南ではクロード・ダヌボー(英語版)とフランソワの長子・王太子アンリがスペイン北部のペルピニャンを包囲(英語版)したが失敗した。フランソワ自身はラ・ロシェルでおきた塩税改革に起因する反乱で身動きが取れなかった。 この時点でフランソワとヘンリー8世の関係はこじれていた。ヘンリーは同盟条約で規定されていた年金支払いをフランスが拒否したことに激怒していて、さらにフランスのスコットランド介入に直面していた。ヘンリーは息子とスコットランド女王メアリーを結婚させようとし、それがスコットランドの政争につながり、ヘンリーはその隙をついてスコットランドを攻撃した。ヘンリーは1543年夏の宣戦を目途に、フランソワに対する戦争を準備していたが、皇帝の支持を取り付けるのに苦労した。皇帝はヘンリーが教会分裂を引き起こすとみていたので、ヘンリーを攻撃から守ることも、教会の長と呼ぶことも到底受け入れられるものではなかった。交渉は数週間続き、1543年2月11日に同盟条約に漕ぎつけた。条約では2年内のフランス侵攻が約された。同年5月、ヘンリーはフランソワに最後通牒を送り、20日内の返答を要求し、6月22日に宣戦した。 フランス北部で戦火が広がった。ヘンリー8世の命令でジョン・ワロップ(英語版)が5千の軍勢を連れてイギリス海峡を渡ってカレーに到着、そのままネーデルラントの守備についた。フランス軍ではヴァンドーム公アントワーヌが4月にリレ(英語版)を、ダヌボーが6月にランドルシー(英語版)を占領した。ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム5世は公然とフランソワに味方してブラバント公国を攻撃、アルトワとエノー伯領で戦闘がおこった。フランソワもついに進軍したがなぜかランスで止まり、一方カールはユーリヒ公国に侵攻してデューレン(英語版)を占領した。 ここでヴィルヘルム5世の危機を察知したフランソワはオルレアン公とダヌボーにリュクサンブール攻撃を命じ、二人は9月10日に入城した。しかし、ヴィルヘルムはその3日前に投降してフェンロー条約に署名してしまった。条約により、ヴィルヘルム5世はゲルデルン公国とズトフェン伯領をカール5世に割譲し、宗教改革の鎮圧を約束した。カールは続いてランドルシー包囲戦(英語版)を敢行、フランソワとの決戦を求めた。フランス軍のマルタン・デュ・ベレイ(英語版)は皇帝軍の攻撃を防いだが、フランソワは11月4日にサン=カンタンへ撤退、皇帝は北上してカンブレーを占領した。
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