初期の前輪駆動車
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20世紀初頭、後の第一次世界大戦後に高速戦車開発で成功を収めるアメリカ合衆国の発明家ジョン・W・クリスティーが、ガソリン前輪駆動車の開発に先鞭をつけた。クリスティーは1904年以降、約10年間にわたって特異な前輪駆動車の設計に取り組み、1905年のヴァンダービルト杯、1906年のフランスグランプリなど、初期の大レースにも盛んに参加した。クリスティーの前輪駆動車は巨大なV型4気筒エンジンを車両前部に横置きし、そのエンジンのクランクシャフト両端にクラッチを介して直接左右の前輪を接続するという、変速機も搭載しない極めて粗野な構造であった(ただしスライディングピラー式前輪独立懸架付きであった)。最大で排気量19,981 ccにも及んだ大出力エンジンによって高速走行を実現したが、操縦が難しく、クリスティー本人も含む運転者の重傷事故が多発し、死者も出ている。 その後、クリスティーは1909年に市販を企図したタクシー向けの前輪駆動車を開発した。それははるか後年のジアコーサ方式にも似た、エンジンとトランスミッションを横置きで直列配置し、真下の前車軸に動力伝達する手法を採用、前輪独立懸架も採用していた。さらに1912年には、既存の馬匹牽引式蒸気消防車の前方に前輪駆動の走行ユニットを組み付けるタイプの自走消防車も開発した。しかしクリスティーの開発した各種の野心的な前輪駆動車は、当時の技術水準に対して着想が高度すぎた上に商業的にも高価で、いずれも成功しなかった。クリスティーは第一次世界大戦中に戦車の開発に注力するようになり、前輪駆動車の開発からは離れいった。 1920年代には、変速機と差動装置を一体化したトランスアクスルを備えるより現実的な前輪駆動車が出現した。四輪自動車の前輪駆動に関する理論的な解析は概して乏しい状態であったが、感覚的に「後輪による推進よりも、前輪による牽引の方が安定性に優れているであろう」と考えた技術者たちが、レーシングカーに前輪駆動を導入していた。1925年から1926年にかけて、アメリカの自動車設計者であるハリー・ミラー(英語版)による1.5 L 8気筒エンジンの「ミラー・レーサー」と、フランスの技術者ジャン=アルベール・グレゴワール(フランス語版)およびピエール・フナイユ (Pierre Fenaille) による1.1 L 4気筒エンジンの「トラクタ・ジェフィ (Tracta Gephi)」が世に送り出された。いずれも低重心シャーシと過給器付き高性能エンジンとの組み合わせで潜在能力は高く、前者はインディ500で数年間にわたって上位入賞、後者はル・マン24時間レースに1927年は設計者自身の手で完走、1930年には1,100 ccクラスの1位2位入賞を達成するなど、サーキットで優れた成績を収めた。 この実績を活かして、ミラーは自動車ディーラーのエレット・ロヴァン・コードの依頼で大型高級車「コード(英語版)・L29」(1929年)を、グレゴワールは「トラクタ(英語版)」の市販モデル(1927年)をそれぞれ開発したが、いずれも少量生産に終わっている。 時を同じくして、ミラーの成功に刺激されたアメリカの大手自動車メーカーが前輪駆動方式を検討するようになるが、ジョイントの問題から頓挫した。 これらを含めて第二次世界大戦以前に開発された初期の前輪駆動車の多くが商業的・技術的に成功しなかったのは、前輪を駆動するジョイントが円滑性・耐久性の面で未熟であったことや、前輪を車体最先端に置き、エンジンはそれより後方に縦置きするという、同時代の後輪駆動車に影響されたレイアウト(いわゆるフロントミッドシップ)を採用しており、駆動輪の荷重不足で十分な駆動力を得られなかったためである。これは発進時や登坂路において顕著な問題となった。前車軸が車体最先端に位置したコード・L29の場合、前後輪の荷重比率は38:62で、駆動輪である前輪荷重の不足が甚だしかった。また、ジョイントの制約から回転半径も大きくなった。 これらとは別に、1920年代のアメリカでは前輪駆動が主となるフォークリフトの開発・普及が始まった。
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