初期の加盟店
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 13:55 UTC 版)
「ケンタッキーフライドチキンの歴史」の記事における「初期の加盟店」の解説
サンダース・コート・アンド・カフェの客のほとんどは車で移動するドライバーであり、1955年に計画中の州間高速道路75号線のルートがケンタッキー州コービンをバイパスすることが公表されたとき、サンダースは資産を売り払ってアメリカ各地を回り、レストランのオーナーに自らのフライドチキンを売り込んだ。各レストラン経営者は、サンダースの「ハーブとスパイスの秘密のブレンド」、レシピと調理法、その名前と肖像を広告に使う権利と引き換えに、チキン1個につき4セント(後に5セントに値上げ)をフランチャイズ料として支払うという契約だった。サンダースは、1952年にはすでにユタ州サウス・ソルトレイク(英語版)市のピート・ハーマン(市内でも最大規模のレストランの経営者)にフライドチキンのレシピをフランチャイズして成功を収めていた。 「ケンタッキーフライドチキン」という名称は、ハーマンが雇った看板書きのダン・アンダーソンによって創り出された。サンダースは、この名称が自分のフライドチキンと一般のレストランで提供される「南部風フライドチキン」(ディープフライで調理される)をはっきりと区別するのに役立つと考え、自らのビジネスにも取り入れた。ハーマンが主張するところによると、「ケンタッキーフライドチキン」の販売を開始した最初の1年で、レストランの売り上げは3倍以上になり、その上昇分の75パーセントがフライドチキンの販売によってもたらされていた。ユタ州の住民にとって、ケンタッキーからやってきた商品はエキゾチックで、「アメリカ南部の温かみ」を連想させるものだった。 フランチャイズ型のビジネスであるKFCの成功は、初期の加盟者(フランチャイジー)の業績に依存していた。したがって、ハーマンはサンダースの伝記作家によってKFCの「事実上の共同創業者」として描写されている。ハーマンは「指まで舐めちゃうおいしさ」("It's finger lickin' good") というキャッチフレーズの下でフライドチキンを販売したが、最終的にこのフレーズはKFCチェーン全体で使用されるようになった。1957年、ハーマンは14個のフライドチキンと5ロールのパン、1パイントのグレイビーソースをボール紙のバスケットに入れて1セットにした上で、これを「コンプリートミール」として3.50ドル(2014年の貨幣価値で約30米ドル)で家族向けに発売した。このセットは当初、あるデンバーのKFC加盟者(セールスマンから購入したボール紙のバスケット500個をもて余していた)のかわりに電話をかけてきたサンダースを手助けするつもりでハーマンが試験販売したものだった。 1956年までには、サンダースは6 - 8店の加盟者を抱えており、そのなかには後にウェンディーズを創業するデイヴ・トーマス(英語版)も含まれていた。トーマスは回転する赤いバケット型看板を開発したほか、ハーマンが開拓したテイクアウトのコンセプトを支持した最初期の人物でもあり、トーマスが導入した簿記の方法は後にサンダースがKFCチェーン全体に広めることにもなった。1968年、トーマスは100万ドルで所有する株式を売却し、ミシシッピ川以東のすべてのKFCレストランの地域マネージャーに就任した。その後1969年にウェンディーズを設立するまでその立場にとどまった。 1956年、サンダースは本社をコービンからシェルビービル (ケンタッキー州)(英語版)に移した。シェルビービルはコービンよりも物流上優れた場所にあり、スパイス、圧力調理器、テイクアウト用の箱、広告用資材などを加盟店に輸送するのに好都合だった。
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