初期の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:03 UTC 版)
「静岡市営電気供給事業」の記事における「初期の動向」の解説
前述の通り、静岡市は1911年2月28日付で静岡電灯の電灯供給設備一切の引継ぎを完了し、翌3月1日より市営電気供給事業を開業。半年後の9月1日より四日市製紙からの受電への電源転換を果たした。市に対する送電に際し四日市製紙では富士川水系の芝川に大久保発電所(出力1,792 kW)を完成させているが、この段階での市の受電高は日中500 kW・夜間1,000 kWであった。大久保発電所は富士郡芝富村大字西山(現・富士宮市西山)に所在。発電所から伸びる送電線の終端として、静岡市郊外の安倍郡大里村川辺(現・静岡市葵区川辺町)に変電所が設けられた。 受電転換にあわせ、市では電灯料金を大幅に引き下げた。静岡電灯時代の1909年12月にも値下げが実施されており、定額の16燭灯を例にとるとその月額料金は1円40銭から半額以下の65銭に圧縮された。値下げと供給力の拡大によって供給成績は短期間で大きく伸長し、1911年12月末時点での電灯需要家数は引継ぎ時から7028戸増の8574戸、取付灯数は1万3645灯増の2万1383灯(うち2灯は弧光灯)となった。また1911年10月からは電灯供給に加えて動力用電力の供給も始まった。こちらは同年末時点で電動機96台・計208.5 kWの取付けがある。 電灯・電力ともに1910年代を通じて供給を拡大し続け、取付灯数は1916年度(大正5年度)に5万灯に到達、電力取付kW数も翌年度に1,000 kWを超えた。電灯供給では利用電力量に応じて料金を支払う従量灯の増加が著しく、電力供給では製材・木工用を中心に精米用や製茶用などの需要が増加した。このように成績の伸びは順調に見えるが、実際には受電への電源依存が制約となり常に供給力不足に悩まされた。需要増加に伴いまず夜間電力に不足をきたし、1914年から翌年にかけて消費電力の少ないタングステン電球(発光部分にタングステン線を用いる白熱電球)への取り替えを余儀なくされる。続いて第一次世界大戦による大戦景気を背景とする動力需要の増加によって昼間電力にも不足をきたし、割高な電力料金を支払って受電電源を確保せざるを得なくなった。 このように事業拡大に制約があったものの、着実な事業収入の増加に伴って電気事業会計の余剰金も増加し、1912年度(大正元年度)からは市の一般会計への余剰金繰入れが可能となった。
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