初期の取り組み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/26 14:00 UTC 版)
第一次世界大戦後、ニューヨーク市地下鉄では乗客が急増していた。戦争の7年前には年間乗客数は5億2300万人であったのに対し、1920年には13億人に達していた。1919年にニューヨーク公益事業委員会(英語版)は、技術者のダニエル・L・ターナーの指示により、ニューヨークの公共交通機関網にどのような改良が必要とされるかの検討を開始した。ターナーの「総合的な高速交通網の提案」という題の最終報告書は大規模な計画で、マンハッタンのほぼすべての南北の通りの下に新線を設け、何本もの線をブルックリンとクイーンズに延長し、ザ・ナローズ(英語版)をくぐってスタテンアイランドへも何本かの路線を伸ばすことになっていた:22–25。計画の中でも、2番街の下にある大規模な幹線は少なくとも6本の線路を有し、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクスにおいて数多くの支線を有していた。これと引き換えに、高架鉄道のIRT2番街線とIRT3番街線は、6線の地下鉄建設スペースを生み出すために解体されることになっていた:203。この計画は1927年1月に改訂された。 1929年9月15日にニューヨーク市運輸委員会(英語版)は暫定的に拡張計画を承認し、計画では土地の買収費用を含めずに9890万ドル(2019年の価値にして14億6000万ドル)の建設費を2番街線について見込んでいた。北側では、ブロンクスにおいて数本の支線が合流して本線の4線となり、ハーレム川を渡って125丁目から南へ向かう。125丁目から61丁目のIND6番街線との連絡線までは6線となり、そこからチェンバーズ・ストリートまでは4線(複々線)、そして最終的に2線となってパイン・ストリートへ向かう。しかしこの年世界恐慌が始まり、高騰する建設費用を管理しきれなくなった。インディペンデント・サブウェイ・システムの建設の第1段階は既に予定工期より遅れており、市と州はこれ以上予算を供給できなくなった。1930年にはこの線の計画は縮小され、125丁目からハウストン・ストリートまでは1940年までに完成させ、34丁目に沿った支線は1948年までに完成させることになった。この縮小された計画は1931年に延期された。1932年には、運輸委員会はさらに費用を削減するために計画を変更し、ブロンクスの支線を減らし、南側の終点をBMTブルックリン・ループ(英語版)までに短縮した:204–205。 さらに計画が改訂され、検討も続けられた。1939年には、2番街駅の上部の短い区間を完成させただけで、建設は無期限延期された。IND2番街線は、「構想中」段階に格下げされ、運輸委員会の重要運輸プロジェクト一覧の14番に位置付けられた。路線は2本の線路にまで削減され、北側の支線はスロッグス・ネック(英語版)を通る1本のみに、マンハッタンではBMTブロードウェイ線への連絡線、そして南側への線路はブルックリンでコート・ストリート駅からINDフルトン・ストリート線へと通じることになった:205。この路線の推定建設費は2億4900万ドル(2019年の43億3000万ドルに相当)に上昇した。アメリカ合衆国が1941年に第二次世界大戦に突入したことで、もっとも緊急の公共事業以外は休止されたため、IND2番街線はさらに遅れることになった。 ニューヨーク市地下鉄を形成した3つの地下鉄会社が1940年に合併したことの一環として、高架鉄道線は全市に渡って廃止し地下鉄に置き換えられることになった:205–206。アッパー・イースト・サイドやスパニッシュ・ハーレムを通るIRT2番街線の北側半分は1940年6月11日に廃止された。ロウアー・マンハッタン、ミッドタウンを通りクイーンズボロ橋を渡ってクイーンズへと向かう南側半分は、1942年6月13日に廃止された。2番街高架線の廃止により、マンハッタンのイースト・サイドへ直通する列車のなくなったクイーンズのBMTアストリア線、IRTフラッシング線の混雑が激化した:208。高架鉄道線の廃止と、イースト・サイドにおける人口の増加により、IND2番街線の必要性が増すことになった。 1944年に運輸委員会の責任者フィリップ・E・ファイファーは、Bディビジョンに大規模に直通するような2番街線地下鉄列車の提案を行った:209–210。地下鉄線は当初は1951年までに開通することになっていたが、1945年までには2番街線地下鉄の計画は再度見直された:210–211。1947年に都市計画技術者でかつてのインターボロー・ラピッド・トランジット (IRT) の技術者であったコロネル・シドニー・H・ビンガムが別の計画を提案した。オドワイヤーとグロスは、既存の路線網の容量を増大させ新たな支線網を建設できるようにするために、2番街線地下鉄の建設が非常に重要だと考えていた:209。ビンガムの提案はファイファーの計画に比べて多くの支線や連絡線を含むもので、1960年代や1990年代の段階的な構想と似て、区間別に建設されることになっていた:209。しかし、翌年にはニューヨーク市は、8億ドル必要であるとされた修復改良計画に対して1億4500万ドルの不足を生じていた。ニューヨーク市はニューヨーク州議会に対し、市が地下鉄建設に5億ドルを投じられるよう、6億5500万ドルとされていた債務上限額を引き上げるように請願したが、この提案は却下された。 そして運輸委員会はバッドに10両のステンレス製車両の新型プロトタイプを発注した。契約番号にちなんでR11形と呼ばれるこれらの車両は、1949年に納入され、特に2番街線用を意図されていたものであった。この車両は1両当たり10万ドル(2019年の価値に換算して107万ドル)の費用が掛かり、10両編成で「100万ドル列車」として知られるようになった。この形の電車は、舷窓タイプの丸窓と新しい車内放送システムを特徴としていた。当時の公衆衛生への関心、特に急性灰白髄炎(ポリオ)の問題から、殺菌のために静電気式エアクリーナーと紫外線ランプを換気システムに組み込んでいた。 1949年になり、クイーンズおよびロウアー・マンハッタンの住民は、2番街線を建設しても自分たちにとっては公共交通手段の選択肢が改善されないと不満を訴えた。翌年、クイーンズからの連絡を含んだ改定案が立案された。ニューヨークの有権者は、1951年にこの建設のための市債発行を承認し、市は何とか建設に必須となる5億5900万ドルの資金調達に成功した。しかし、当時進行中の朝鮮戦争により建設資材価格の急騰を招いており、酷いインフレーションが始まろうとしていた。1951年の市債発行によって調達された資金は新車の購入、プラットホームの延長、老朽化しつつあるニューヨーク市地下鉄の部品の保守作業などに振り向けられた。5億ドル以上の市債発行額のうち、22パーセントの1億1200万ドル(2019年の11億ドルに相当)のみが2番街線に振り向けられた。この時点で建設は1952年から1957年の時期に開始されることになっており、もっとも早ければ1958年に完成することが見込まれていた。 この地域で唯一の高架線となっていた、IRT3番街線は1955年5月13日に廃止され、1956年に解体撤去された。IRTレキシントン・アベニュー線がイースト・サイドにおける唯一の地下鉄となって、混雑の激化を招いた。1957年までには、1951年の市債発行額はほとんど完全に他のプロジェクトによって使われ:216、ニューヨーク・タイムズ紙は、今までに建設された2番街線に絶望した。ある記者は「2番街線は、間違いなくさらに5億ドル以上がかかり、新たな債券発行が必要だろう」と書いた。
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