初期の反対論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 04:26 UTC 版)
アインシュタインの1905年の予測は、ロバート・ミリカンのノーベル・レクチャーでも詳しく語られたように、20世紀の最初の20年間で様々な実験によって実証された。しかし、1922年にコンプトンの実験で光子が波数に比例した角運動量を運ぶことが示されるまでは、ほとんどの物理学者は電磁放射自体が粒子であることを信じられなかった(例えば、ヴィルヘルム・ヴィーン、マックス・プランク、ミリカンのノーベルレクチャー)。その代わり、エネルギーの量子化は物質の未知の制約に由来するという考えが広く信じられた。しかし、量子化を光自身に帰さなければ解釈の難しいコンプトン効果の実験等で、徐々に態度が変わっていった。 コンプトンの実験の後でも、ニールス・ボーア、ヘンリク・アンソニー・クラマース、ジョン・クラーク・スレイターらは、マクスウェルの連続電磁場モデル、いわゆるBKSモデルを最後まで守り続けた。当時得られていたデータを説明するため、2つの過激な仮説が作り出された。 エネルギーと運動量は、物質と放射の相互作用で平均でしか保存されず、吸収や放出のような本質的な過程では保存されない。 因果律を放棄する。 しかし、改良されたコンプトン効果の実験で、エネルギー-運動量は非常に良く保存されることが示され、またコンプトン散乱における電子の振動と新しい光子の生成は、10ピコ秒以内で因果律に従った。その結果、ボーアらは彼らのモデルに「できるだけ立派な葬式」を挙げることにした。BKSモデルは頓挫したものの、ヴェルナー・ハイゼンベルクに行列力学の着想を与えることとなった。 それでも少数の物理学者は、電磁放射を量子化せず、物質のみが量子力学の法則に従うという半古典的モデルを発展させることに固執した。1970年代には化学実験や物理実験から光子の存在の証拠が圧倒的になるものの、光と物質の相互作用に依っていたために、完全に決定的なものとは見なされなかった。1970年代から1980年代には、全ての半古典的理論が決定的に否定され、量子化は光自体の性質だとするアインシュタインの仮説は証明されたとみなされた。
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