ボン時代のベートーヴェン
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「ベートーヴェンとモーツァルト」の記事における「ボン時代のベートーヴェン」の解説
ベートーヴェンはモーツァルト(1756年、ザルツブルク生)に遅れること14年、1770年にボンで誕生した。まだベートーヴェンが幼かった1781年に、モーツァルトはキャリア開拓のためザルツブルクからオーストリアの首都ウィーンへ移っている。ボンは政治的、文化的にはウィーンの影響下にあったが、地理的にはザルツブルクよりも遥かに遠方でドイツ語圏ヨーロッパを逆方向に進むこと約900キロメートルの地点に位置していた。 幼少期にボンで教育を受ける間、ベートーヴェンはモーツァルトの音楽に広く、深く触れることになった。ボンの宮廷管弦楽団とモーツァルトのピアノ協奏曲を演奏することもあれば、ヴィオラ奏者としてモーツァルトのオペラ上演に参加することもあった。ルイス・ロックウッドは「ちょうどモーツァルトが父に宛てて自分が『音楽に浸っている』と書き送ったように、ベートーヴェンもモーツァルトに浸っていたのである」と書いている。作曲をしようという初期の取り組みを行うにあたり、ベートーヴェンは自分がモーツァルトに感化され過ぎていて、うっかり彼の作品を剽窃してしまうのではないかと心配したこともあったほどであった。ロックウッドは次のように書いている。 ベートーヴェンは1790年10月のスケッチ帳に2段のピアノ譜で6/8拍子、ハ短調のパッセージを書きつけた。その後、その小さいフレーズについて段と段の間へ次の文言を書き加えた。「このパッセージ全体はモーツァルトのハ長調交響曲から盗ったもの。アンダンテ、6/8でその(言葉はここで途切れている)」それからベートーヴェンはスケッチ帳の同じページのすぐ下にそのパッセージを少し変更して書き直し、そこへ「ベートーヴェン自身」とサインした。彼が引用だと考えたそのパッセージは、我々が知るモーツァルトのどの交響曲からも探し出すことはできない。
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