ボン大学とは? わかりやすく解説

ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン

(ボン大学 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/09 01:16 UTC 版)

ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン
University of Bonn
Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität Bonn
ラテン語: Universitas Fridericia Guilelmia Rhenana Bonn
種別 国立大学
設立年 18 October 1818
学長 Michael Hoch
職員数
4,479[1]
学生総数 35,000[2]
所在地  ドイツ
ノルトライン=ヴェストファーレン州ボン
キャンパス Urban
スクールカラー 青色・金色    
German Universities Excellence Initiative
公式サイト www.uni-bonn.de
テンプレートを表示

ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボンドイツ語: Universität Bonn)は、ドイツボンにある国立大学。通称はボン大学

ドイツの大学研究費配分制度エクセレンス・イニシアティブの最新版(2019年以降)において、11のエリート大学(Exzellenzuniversitäten)の1つに指定されている。

概要

ボン大学はドイツ連邦共和国ノルトラインヴェストファーレン州ボンに位置する。国家の三権を有する連邦州が運営する国立大学である。35,000人の学生と4479人の教員を擁する(2020年時点)。THE世界大学ランキングにおいて第89位にランクインしている(2022年10月時点)。

歴史

1777年、大学の前身「Kurkölnische Akademie Bonn(ケルン選帝侯アカデミー・ボン)」がベートーヴェンのパトロンのケルン選帝侯マクシミリアン・フリードリヒにより創立された。伝統的なケルン大学と対照的に、啓蒙主義的な学術機関で、例えば、国家財政に関する講義は当時のラインラントの生活経済状況に対応するものだった[3]。1784年、神聖ローマ帝国皇帝のヨーゼフ2世は修士号、博士号を授与する権利を与え、大学化した。1815年、ナポレオン戦争後のウィーン会議でラインラントがプロイセン王国領となった。プロイセン王国の政治は宗教的中立を守ったため、カトリックのケルン大学やプロテスタントのデュイスブルク大学とは別の大学を設置する必要があった。1818年、プロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はこの大学をライン州の大学「Rhein-Universität(ライン大学)」と位置付けた。1840年、プロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこの大学を「Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität(ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学)」と名付けた。

1918年のヴァイマル共和政設立以降、また、1949年ドイツ連邦共和国設立以降も、自然科学、人文科学を中心とした大学として国際的評価を得ている。

国際的評価

英国THE世界大学ランキングタイムズ・ハイアー・エデュケーション)世界第89位[1](2023年版、2022年10月発表)

上海世界大学学術ランキング上海交通大学)世界第76位[2]

協定大学

主な協定大学:オックスフォード大学ワシントン州立大学カリフォルニア大学北京大学上海交通大学香港大学[4]

日本では東京大学、筑波大学、早稲田大学、慶応大学、上智大学、立教大学と協定関係にある。東京農工大学は研究拠点の一つがボン大学内にある[5]

学部

ボン大学講堂「選帝侯宮殿(Kurfürstliches Schloss)」

以下の7つの学部を擁する。

  • Katholisch-Theologische Fakultät(カトリック神学部)
  • Evangelisch-Theologische Fakultät福音主義神学部
  • Rechts- und Staatswissenschaftliche Fakultät(法学・国家学部)
  • Medizinische Fakultät(医学部)
  • Philosophische Fakultät(哲学部)
  • Mathematisch-Naturwissenschaftliche Fakultät(数学・自然科学部)
  • Landwirtschaftliche Fakultät(農学部)

研究科

ボン大学図書館

全ての研究科に修士号、博士号取得プログラムがあり、プロジェクトテーマが随時提供されている。また、留学奨励制度「エラスムス・ムンドゥス」のある研究科も多い。

著名な学生

著名な研究者

ノーベル賞受賞者

卒業生・留学生

脚注

  1. ^ 公式ウェブサイト
  2. ^ 公式ウェブサイト
  3. ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 37.
  4. ^ University Partnerships” (英語). Universität Bonn. 2022年1月18日閲覧。
  5. ^ ドイツ・ボン大学の学術交流拠点「コラボレーションラボラトリー」を開設 | 来訪・交流 | ニュース | 国立大学法人 東京農工大学”. www.tuat.ac.jp. 2020年10月4日閲覧。
  6. ^ 吉野正敏(1998)"二〇世紀の地理学者たち 第32回 ヘルマン・フローン"地理古今書院).48(8):86-94.(88ページより)

外部リンク


ボン大学

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 19:33 UTC 版)

カール・マルクス」の記事における「ボン大学」の解説

1835年10月にボン大学に入学した大学では法学中心としつつ、詩や文学歴史講義もとった大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビュー計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた実際マルクス作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという。 また1835年18歳になったマルクスプロイセン陸軍ドイツ語版)に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となったマルクスの父はマルクス書簡出して医師証明書書いて兵役免除してもらうことは良心痛むようなことではない、と諭している。 当時大学では平民学生出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族学生独自に学生会作る)。マルクス30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクス入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく学生団体政治的な話は避けるのが一般的決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族学生一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも学生に一般的だったサーベル使って決闘ではなくピストルでもって決闘したようである。 全体的に素行不良学生だったらしく、酔っぱらって狼藉働いたとされて一日禁足処分受けたり上記決闘の際にピストル不法所持警察一時勾留されたりもしている(警察からはピストル出所について背後関係調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果出ている)。こうした生活で浪費激しく、父ハインリヒは「まとまり締めくくりもないカール勘定」を嘆いたという。 1836年夏にトリーア帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレン婚約したヴェストファーレン家は貴族家柄であり、彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレン参事官としてトリーア居住していた。ルートヴィヒは父ハインリヒ友人で、マルクス文学好きは彼の影響によるところが大きい。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィー友人だったが、マルクスとも幼馴染の関係にあたり幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという。 貴族の娘とユダヤ人弁護士息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒ自由主義的保守派貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見持たない人だったため、婚約許してくれた。

※この「ボン大学」の解説は、「カール・マルクス」の解説の一部です。
「ボン大学」を含む「カール・マルクス」の記事については、「カール・マルクス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ボン大学」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ボン大学」の関連用語

ボン大学のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ボン大学のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのカール・マルクス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS