ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン
ボン大学
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1835年10月にボン大学に入学した。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという。 また1835年に18歳になったマルクスはプロイセン陸軍(ドイツ語版)に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している。 当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも学生に一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである。 全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという。 1836年夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約した。ヴェストファーレン家は貴族の家柄であり、彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは参事官としてトリーアに居住していた。ルートヴィヒは父ハインリヒの友人で、マルクスの文学好きは彼の影響によるところが大きい。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという。 貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた。
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