ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン
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Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität Bonn | |
![]() |
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ラテン語: Universitas Fridericia Guilelmia Rhenana Bonn | |
種別 | 国立大学 |
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設立年 | 18 October 1818 |
学長 | Michael Hoch |
職員数
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4,479[1] |
学生総数 | 35,000[2] |
所在地 | ![]() ノルトライン=ヴェストファーレン州ボン |
キャンパス | Urban |
スクールカラー | 青色・金色 |
German Universities Excellence Initiative | |
公式サイト | www.uni-bonn.de |
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ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン(ドイツ語: Universität Bonn)は、ドイツのボンにある国立大学。通称はボン大学。
ドイツの大学研究費配分制度エクセレンス・イニシアティブの最新版(2019年以降)において、11のエリート大学(Exzellenzuniversitäten)の1つに指定されている。
概要
ボン大学はドイツ連邦共和国ノルトラインヴェストファーレン州ボンに位置する。国家の三権を有する連邦州が運営する国立大学である。35,000人の学生と4479人の教員を擁する(2020年時点)。THE世界大学ランキングにおいて第89位にランクインしている(2022年10月時点)。
歴史
1777年、大学の前身「Kurkölnische Akademie Bonn(ケルン選帝侯アカデミー・ボン)」がベートーヴェンのパトロンのケルン選帝侯マクシミリアン・フリードリヒにより創立された。伝統的なケルン大学と対照的に、啓蒙主義的な学術機関で、例えば、国家財政に関する講義は当時のラインラントの生活経済状況に対応するものだった[3]。1784年、神聖ローマ帝国皇帝のヨーゼフ2世は修士号、博士号を授与する権利を与え、大学化した。1815年、ナポレオン戦争後のウィーン会議でラインラントがプロイセン王国領となった。プロイセン王国の政治は宗教的中立を守ったため、カトリックのケルン大学やプロテスタントのデュイスブルク大学とは別の大学を設置する必要があった。1818年、プロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世はこの大学をライン州の大学「Rhein-Universität(ライン大学)」と位置付けた。1840年、プロイセン王のフリードリヒ・ヴィルヘルム4世はこの大学を「Rheinische Friedrich-Wilhelms-Universität(ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学)」と名付けた。
1918年のヴァイマル共和政設立以降、また、1949年のドイツ連邦共和国設立以降も、自然科学、人文科学を中心とした大学として国際的評価を得ている。
国際的評価
英国THE世界大学ランキング(タイムズ・ハイアー・エデュケーション)世界第89位[1](2023年版、2022年10月発表)
上海世界大学学術ランキング(上海交通大学)世界第76位[2]
協定大学
主な協定大学:オックスフォード大学、ワシントン州立大学、カリフォルニア大学、北京大学、上海交通大学、香港大学等[4]
日本では東京大学、筑波大学、早稲田大学、慶応大学、上智大学、立教大学と協定関係にある。東京農工大学は研究拠点の一つがボン大学内にある[5]
学部

以下の7つの学部を擁する。
- Katholisch-Theologische Fakultät(カトリック神学部)
- Evangelisch-Theologische Fakultät(福音主義神学部)
- Rechts- und Staatswissenschaftliche Fakultät(法学・国家学部)
- Medizinische Fakultät(医学部)
- Philosophische Fakultät(哲学部)
- Mathematisch-Naturwissenschaftliche Fakultät(数学・自然科学部)
- Landwirtschaftliche Fakultät(農学部)
研究科

全ての研究科に修士号、博士号取得プログラムがあり、プロジェクトテーマが随時提供されている。また、留学奨励制度「エラスムス・ムンドゥス」のある研究科も多い。
著名な学生
- コンラート・アデナウアー ドイツ連邦共和国初代首相
- ハインリヒ・ハイネ 詩人
- カール・マルクス 哲学者
- フリードリッヒ・ニーチェ 哲学者
- ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン 作曲家
- ヴィルヘルム2世 ドイツ帝国皇帝
- マックス・ブルッフ 作曲家
- ハンス・クナッパーツブッシュ 指揮者
- マルクス・ガブリエル 哲学者
- マキシム・コンツェビッチ 数学者
- ウリケ・シェーデ 経済学者
- ユストゥス・フォン・リービッヒ 化学者
著名な研究者
- マルクス・ガブリエル(哲学)
- アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル(文学)
- エルンスト・モーリッツ・アルント(歴史学)
- フリードリヒ・ヴィルヘルム・アルゲランダー(天文学)
- カール・バルト(神学)
- ベネディクト16世(神学、元ローマ教皇)
- ハインリヒ・ヘルツ(物理学・音響工学)
- ヨーゼフ・シュンペーター(経済学)
- フリードリヒ・ケクレ(化学)
- ヘルマン・フローン(地理学・気候学[6])
- ピーター・ショルツ(数学)
- ハンス・ヴェルツェル(法学)
- 藤原静雄(法学)
ノーベル賞受賞者
- オットー・ヴァラッハ(化学、1910年)
- ヴォルフガング・パウル(物理学、1989年)
- ラインハルト・ゼルテン(経済学、1994年)
- ハラルド・ツア・ハウゼン(生理学・医学、2008年)
卒業生・留学生
- 岡室博之(経済学)
- 赤城毅(西洋史学)
- 平場安治(法学)
- 福田平(法学)
- マイケル・アマコスト(法学)
- サブリ・キチマリ(政治哲学)
- ホセ・ヨンパルト(法学)
- 西園寺八郎【貴族院議員】【西園寺公望】の長男。
脚注
- ^ 公式ウェブサイト
- ^ 公式ウェブサイト
- ^ Gertrude Cepl-Kaufman / Antje Johanning: Mythos Rhein. Zur Kulturgeschichte eines Stromes. Darmstadt: Wissenschaftliche Buchgesellschaft 2003 (ISBN 3-534-15202-6), S. 37.
- ^ “University Partnerships” (英語). Universität Bonn. 2022年1月18日閲覧。
- ^ “ドイツ・ボン大学の学術交流拠点「コラボレーションラボラトリー」を開設 | 来訪・交流 | ニュース | 国立大学法人 東京農工大学”. www.tuat.ac.jp. 2020年10月4日閲覧。
- ^ 吉野正敏(1998)"二〇世紀の地理学者たち 第32回 ヘルマン・フローン"地理(古今書院).48(8):86-94.(88ページより)
外部リンク
ボン大学
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1835年10月にボン大学に入学した。大学では法学を中心としつつ、詩や文学、歴史の講義もとった。大学入学から三カ月にして文学同人誌へのデビューを計画したが、父ハインリヒが「お前が凡庸な詩人としてデビューすることは嘆かわしい」と説得して止めた。実際、マルクスの作った詩はそれほど出来のいい物ではなかったという。 また1835年に18歳になったマルクスはプロイセン陸軍(ドイツ語版)に徴兵される予定だったが、「胸の疾患」で兵役不適格となった。マルクスの父はマルクスに書簡を出して、医師に証明書を書いて兵役を免除してもらうことは良心の痛むようなことではない、と諭している。 当時の大学では平民の学生は出身地ごとに同郷会を作っていた(貴族の学生は独自に学生会を作る)。マルクスも30人ほどのトリーア出身者から成る同郷会に所属したが、マルクスが入学したころ、政府による大学監視の目は厳しく、学生団体も政治的な話は避けるのが一般的で決闘ぐらいしかすることはなかったという。マルクスも新プロイセン会の貴族の学生と一度決闘して左目の上に傷を受けたことがあるという。しかも学生に一般的だったサーベルを使っての決闘ではなく、ピストルでもって決闘したようである。 全体的に素行不良な学生だったらしく、酔っぱらって狼藉を働いたとされて一日禁足処分を受けたり、上記の決闘の際にピストル不法所持で警察に一時勾留されたりもしている(警察からはピストルの出所について背後関係を調べられたが、特に政治的な背後関係はないとの調査結果が出ている)。こうした生活で浪費も激しく、父ハインリヒは「まとまりも締めくくりもないカール流勘定」を嘆いたという。 1836年夏にトリーアに帰郷した際にイェニー・フォン・ヴェストファーレンと婚約した。ヴェストファーレン家は貴族の家柄であり、彼女の父ルートヴィヒ・フォン・ヴェストファーレンは参事官としてトリーアに居住していた。ルートヴィヒは父ハインリヒの友人で、マルクスの文学好きは彼の影響によるところが大きい。イェニーはマルクスより4歳年上で姉ゾフィーの友人だったが、マルクスとも幼馴染の関係にあたり、幼い頃から「ひどい暴君」(イェニー)だった彼に惹かれていたという。 貴族の娘とユダヤ人弁護士の息子では身分違いであり、イェニーも家族から反対されることを心配してマルクスとの婚約を1年ほど隠していた。しかし彼女の父ルートヴィヒは自由主義的保守派の貴族であり(「カジノクラブ」にも加入していた)、貴族的偏見を持たない人だったため、婚約を許してくれた。
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