恐慌への反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:22 UTC 版)
モンロー大統領はこの経済危機を当時主流だった狭い貨幣価値で解釈し、政府の行動を節約と金融安定度の確保に制限した。預託機関である銀行への正金支払いを中断することに同意し、それが1837年恐慌や1857年恐慌の前例となった。モンローは交通手段の改良が必要なことには同意したが、憲法の修正が無ければ内国改良に予算を割り当てることを拒否した。 1821年、アメリカ合衆国議会は公有地債務者救済法を成立させた。この法は、政府から購入した土地について負債を負う者に、既に支払った分の土地保有と残りの土地の放棄を認めた。さらに支払期間を数年間延ばし、支払が早まれば減額した。ニューイングランド諸州を除き、国の大半はこの方法を強く支持した。特に西部の田園州など多くの州議会では債務者に対する更なる救済手段を実施した。 恐慌に対する別の対応として、主に州のレベルでの財政拡大があった。テネシー州、ケンタッキー州、イリノイ州では、州立銀行が正金支払いを中断し、大量の非兌換紙幣を発行した。しかし、他の大半の州はインフレ政策を避け、正金支払いを強制した。各州ではそれぞれの政策について活発な議論があった。財務長官ウィリアム・クロウフォードは将来の金融危機を防止する手段として銀行貸し付けの制限を提唱した。銀行の規制は主に州の責任であると見なされ、幾つかの州は恐慌の後に、銀行は正金に兌換する能力を補償するために一定比率の資本を維持するような規制を成立させた。 1819年恐慌の別の影響は、アメリカ工業界にとっての保護関税支持を強めたことだった。フィラデルフィアの印刷社マシュー・キャリーのような保護主義者は自由貿易が不況の原因であると非難し、関税がアメリカの繁栄を守ると論じた。概して、関税に対する支持は大西洋岸中部諸州で強く、輸出に大きく頼る南部州では反対された。
※この「恐慌への反応」の解説は、「1819年恐慌」の解説の一部です。
「恐慌への反応」を含む「1819年恐慌」の記事については、「1819年恐慌」の概要を参照ください。
- 恐慌への反応のページへのリンク