恐慌突入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 00:22 UTC 版)
金融危機の開始は、1818年夏から急激な信用収縮が始まったときに、第二合衆国銀行が「引き金を引かれた」、「穴を開けられた」、「真っ逆さまに落とされた」など様々に表現していた 。 主要産品に関するフロンティアと海外市場の結びつきは、ヨーロッパが戦後の産品不足から回復し、1817年に豊作となったことで逆転した。アメリカの農園主や農夫はヨーロッパの需要に対応するために生産を拡大していたが、生産は増加しても農産物の価格が半分になっていた。南部の農園主は、イギリスが高値のアメリカ産綿花を回避する手段としてインド産綿花の輸入を始めた時に、大打撃を受けた。綿花の価格は1818年に変動を始め、投機バブルが弾ける脅威となった。これらヨーロッパの展開に対応して、一般的な貸付収縮が提示された。 1818年8月、ウィリアム・ジョーンズは第二合衆国銀行の貸付額が危険なほど拡大していたので、支店に対して財務省に対する歳入支払に使われるものを除き、州認証銀行券の受け取りを全て拒否するよう命令した。1818年10月、財務省は第二合衆国銀行の正金200万米ドルを、ルイジアナ買収のための債務償還のために移すことを要求した。 西部と南部の州立銀行は要求された正金を供給できず、既に貸し付けていた担保の大きい土地について貸し金の返済を要求し始めた。現金に乏しい農夫や投機家はその土地価格が50%も75%も下がっていることがわかった。銀行は土地の取付を始め、それを債権者である第二合衆国銀行に移転した。 1819年1月、綿花の価格が1日に25%も低下するという報せが届き、それに続く恐慌が国内を不況に陥れた。ウィリアム・ジョーンズは合衆国銀行総裁を辞任し、後任はサウスカロライナ州民ラングドン・チーブスとなった。
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