金屋石にまつわる歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/17 15:22 UTC 版)
1632年(寛永9年) 加賀藩主前田利常が金沢城の再建に金屋石の石管(樋石)を用いた。(伝承) 1830年(天保元年)〜 金沢城の記録に金屋石が登場する。 1845年(弘化2年) 金屋岩黒村に伊右衛門・六兵衛・与三郎・伝右衛門・兵三郎・庄兵衛・九次郎・栄次郎の8軒の石屋が記録される。 1852年(嘉永5年) 十村役が金屋岩黒村の石工と山主に採掘の差し止めを申し渡すが、間もなく再開され金沢への御用石の切り出しが行われた。 1858年(安政5年) 安政の大地震が起こり、青島村の伝四郎らは飛騨の道路・河川などの災害復旧工事を請け負う。 1862年(文久2年) 青島村の伝四郎らは富山藩八尾の奥野積山の三ヶ用水拡張工事を請け負う。 1879年(明治12年)は石材工・木工業に携わる職人は18人だったが、1892年(明治25年)には49人に増加している。 1884年(明治17年) 砺波郡役所が課税を行うため石工に鑑札を交付。 1903年(明治36年) 青島・金屋において養蚕・製紙・薪炭に並ぶ主要産業となる。 1920年(大正9年) 金屋の藤掛清太郎ら19人が発起人となって金屋石材会社を設立 1923年(大正12年) 石材採掘に火薬を使用するようになり、井波警察分署へ岩石破砕願を提出する。 1926年(大正15年) 第一次世界大戦後の経済恐慌の余波を受けて金屋石材会社の資本金が半減する。 同年 現場を担当する石材職工組は改組独立して金屋石工組を組織。事務所は金屋石材会社内に置いた。 1930年(昭和5年) 金屋石材会社が解散 1937年(昭和12年) 金屋石工組が解散 1950年(昭和25年) 県営富山球場のスタンド外壁の一部に金屋石が使用される。 1958年(昭和33年) 中川吉蔵・石森吉太郎・石沢米吉らは石材生産加工の立て直しを図る。 同年 文部省は重要文化財金沢城の石川門などの修築工事を行う。金屋石工の石沢米吉は石樋工事を破格値で請け負い、約1週間の突貫工事で立派に仕上げる。 戦後、建築材として販路を見い出したがコンクリートの普及により低迷期を迎える。しかし、庭園の灯籠など美術工芸品として再び脚光を浴びるが、石工職人は減少の一途をたどる。 1970年(昭和45年) 明治から続く石材店はわずか2軒となる。
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