金屏風事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/22 09:32 UTC 版)
金屏風事件(きんびょうぶじけん)
- 1985年に平和相互銀行で起きた不正経理事件。平和相互銀行事件#金屏風事件を参照。
- 1989年12月31日に行われた中森明菜の自殺未遂の謝罪会見において、当時交際が噂された近藤真彦が同席し背景が金屏風だったため婚約発表会見ではないかとして会見が始まったが、結局、近藤が中森との結婚について会見内で否定した事件[1]。金屏風会見とも呼ばれる[2]。
出典
- ^ 宮崎浩 (2019年1月12日). “《平成芸能回顧録》中森明菜のトラウマ “金屏風事件” の代償”. 週刊女性PRIME. 主婦と生活社. 2021年2月12日閲覧。
- ^ “(3ページ目)「薄っぺらい」マッチvs.ヒガシの“溝”が決定的になった「あの事件」と滝沢副社長との“三角関係””. 文春オンライン (文藝春秋). (2020年10月13日) 2021年10月9日閲覧。
金屏風事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/09 16:08 UTC 版)
伊坂ら平和相銀の実権派四人組は、1985年、全貸出金の過半を超える巨額の不良債権を抱える小宮山ファミリー企業の整理に着手。同年2月、小宮山ファミリー企業46社に「融資の担保として平和相銀の株式やその他の株式、小宮山家の土地や家屋を拠出せよ」との内容証明郵便を送付。422億円の借入金の担保として平和相銀株式の提供を迫った。これに、太平洋クラブは応じ、株券を提出したが英一は拒否した。だが、翌月に開催の平和相銀取締役会で、稲井田社長が常務取締役兼本店営業部長の英一の解任を提案。あっという間に可決され、英一は非常勤取締役になり、伊坂の小宮山一族追放作戦を完了した。 この英一の解任にショックを受けたのが英蔵未亡人で、息子の英一を社長にするために英蔵の女婿の池田副社長と弟の精一社長の追放を伊坂に頼み、追い出したのにかかわらず、今度は自分たちが伊坂に切られた格好になってしまった。 しかし、転んでもただでは起きぬ未亡人は、思い切った挙に出て、1985年8月に小宮山家が所有していた銀行側から提出するよう求められていた経営権を握れる平和相銀の2163万株(全株式の33.5%)を旧東京川崎財閥系の資産管理会社「川崎定徳」社長・佐藤茂に85億円で売却した。この佐藤の平和相銀株の購入原資は、イトマンファイナンスから融資され、同社は住友銀行系中堅商社イトマンの関連会社で、当時のイトマン社長は元住銀常務・河村良彦で磯田一郎住銀会長の腹心であった。 伊坂は、小宮山家の影響力を削いだ後に、平和相銀をシティバンクに身売りする腹づもりであったが、平和相銀株は佐藤に渡ってしまった。株買戻しで焦る伊坂らに、大蔵省から天下って平和相銀会長に就いていた田代一正が、日生劇場1階に店舗を構えていた八重洲画廊の真部俊生社長を紹介。真部は伊阪らに「『金蒔絵時代行列』という金屏風を平和相銀が購入し、裏金をつくれば、佐藤から株を買い戻せる」との話を持ちかけた。伊坂らは、最初は疑心暗鬼であった。だが、佐藤と接触するうちに真部と佐藤はグルであると確信。また佐藤が当時の大蔵大臣であった竹下登とも懇意であることが分かり、実際は3、4億円の価値しかない金屏風の40億円で購入し、差額は大物政治家へ流す裏金という話を信じたのである。 株の買戻しの資金として、伊坂が実質的に経営していた経営コンサルタント会社に平和相銀が購入代金41億円を融資し、金屏風を購入した。にもかかわらず、株の買い戻しはできず、伊坂は騙されたと気づく。この後、裏金の分配先を記した真部メモの存在と竹下の秘書の青木伊平が、この売買に関与していたことが明らかになり、政界に巨額の資金が流れたとされる疑惑が持ち上がった際には、竹下や福本邦雄の関与が取り沙汰された。
※この「金屏風事件」の解説は、「平和相互銀行事件」の解説の一部です。
「金屏風事件」を含む「平和相互銀行事件」の記事については、「平和相互銀行事件」の概要を参照ください。
- 金屏風事件のページへのリンク