20世紀前半のアンゴラ
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「アンゴラの歴史」の記事における「20世紀前半のアンゴラ」の解説
20世紀に入り、共和制革命によって1911年にポルトガル第一共和政が樹立されると、同年中に植民地省が創設された。1914年に制定された共和国植民地法は、ポルトガル語を習得し、キリスト教化したアフリカ大陸部とティモールの現地人を「同化民」(アシミラド)とみなし、ポルトガル市民と同等の権利を認めた。しかし、ポルトガル語を教えるための教育は20世紀の前半を通して他の植民地同様に進まず、1950年の時点でもアンゴラの非識字率は96.4%に達していた。同1950年のアンゴラにおける「同化民」の数は約30,000人に留まり、このポルトガルの同化政策はほとんど効果を持たなかった。一方で、非同化民たる原住民には1911年の原住民労働法の下で、怠惰さを教化するという名目で強制労働が押し付けられた。アンゴラ総督ノルトン・デ・マトス(任:1912-1915、1926-1928)はこのようなアンゴラ原住民への強制労働制度の改革に熱意を燃やしたが、そのような改革は彼の後にはほとんど顧みられず、原住民の強制労働への動員が続けられた。第一次世界大戦中、アンゴラとドイツ領南西アフリカ(現在のナミビア)国境付近でドイツ軍及びドイツ軍に呼応した先住民族とポルトガル軍の小競り合いが生じたものの、アンゴラでの戦闘は1915年中に終結した。 アントニオ・サラザールが政権に就くと、世界恐慌によってアメリカ合衆国やブラジルへの移民を拒まれたポルトガル人移民の送出先としてアフリカは注目されるようになった。既に総督ノルトン・デ・マトスの統治時代にアンゴラの経済はコーヒー、綿花、サイザル麻を中心とする商品作物と、1917年にベルギー、フランス、イギリス、アメリカ合衆国、ポルトガル資本によって設立されたディアマング社によるダイヤモンドの採掘、及び自動車道と鉄道網の拡充を中心とする公共事業への投資によって成功しており、移民の流入は都市化の進展をもたらした。 第二次世界大戦後、1951年にサラザール政権は、ポルトガル植民地を「海外州」と呼び変え、建前上「植民地」を持たないことを根拠に国際連合からの脱植民地化勧告を無視し続けた。1950年代の輸出の主力は輸出総額の40%近くに達したコーヒーだったが、1954年に飛地のカビンダで深海油田が発見されたことは本格的な鉱物資源開発の先駆けとなり、その他にもディアマング社によるダイヤモンド採掘、ロビト鉱山会社による鉄鉱石採掘、アンゴラ=マンガン社によるマンガン採掘など鉱業は発展し、ダムや鉄道、道路、港湾などインフラの整備も進んだ。また、1950年代から1960年代を通してポルトガル人移民のアンゴラ移住は続き、1945年に45,000人だった白人人口は1955年には約10万人、1960年代末には30万人以上に達している。 1954年に北部のコンゴ人を主体に、強制労働制度の廃止を掲げた北部アンゴラ人民同盟(UPNA)がホールデン・ロベルトによって結成され、UPNAは1958年にアンゴラ人民同盟(UPA)に改称した。UPNAの他にも、ポルトガル支配からの解放を目指す組織として1956年にアゴスティーニョ・ネト、マリオ・ピント・デ・アンドラーデ、ヴィリアト・ダ・クルス、アミルカル・カブラルらによってアンゴラ解放人民運動(MPLA)が結成された。
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