スターリン死後
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「ソビエト連邦の食事情」の記事における「スターリン死後」の解説
1953年秋、中央と地方の政府、新聞社に食糧の欠乏を訴える市民の声が多く届く。1954年にフルシチョフは処女地(カザフスタンや西シベリアなどの未開墾地、耕作放棄地)の開拓事業を提案し、処女地からの穀物の収穫が試みられる。1955年から数年の間は処女地の収穫物によって穀物の不足は一時的に解消されたが、処女地が不作に陥ると穀物は再び欠乏する。 1965年になると肉、魚類、卵、野菜、果物、日常食、砂糖の消費量は、ロシア革命前と比べて大幅に増加する。スターリン死後に食肉の消費量が増加した半面供給が追い付かず、週1日の「肉無しデー」が制定された。家畜の餌となる穀物を補うために農業の機械化を推進したが、アメリカ・西欧と比べて技術や労働力の質で劣り、生産性は低かった。飼料用の穀物の多くは、アメリカ・カナダなどから輸入されていた。 ブレジネフ政権を通して食糧不足は悪化し、競争原理が部分的に取り入れられたペレストロイカ時代に食糧の欠乏は顕著になった。裏ルートを通した買いだめにより、店頭から物資が消え去った。 1991年末のソ連崩壊後にロシアの社会・経済が混乱する中で食生活はいち早く改善され、物資の不足は解消された。レストランなどの料理店の質も改善され、レシピ集以外にヴィリヤム・ポフリョプキン(英語版)などが著した食文化を扱う本も読まれるようになった。しかし、1960年代から約30年間安定していた食品の小売価格は、2-3倍に上昇する。また、輸入食材がロシアに多く出回るようになったが、一方でミコヤノフスキー・ソーセージなどのソ連時代の国産品を再評価する動きも見られる。
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スターリン死後
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1953年にスターリンが死去すると、マレンコフが党筆頭書記、首相を兼任し権力を掌握した。しかし集団指導体制を目指すマレンコフは党筆頭書記をフルシチョフに譲った(フルシチョフは後に党第一書記に就任)。最高会議幹部会議長にはヴォロシーロフが就任しトロイカ体制が成立する。 権限の分散を狙ったマレンコフであったが、党が国家を指導するという社会主義国家では必然的に党第一書記の発言力が強くなった。フルシチョフとの対立の結果マレンコフはわずか2年で首相の座を追われた。後任にはブルガーニンが就いた。フルシチョフは1956年に自身の失脚を画策したマレンコフらに反党グループの烙印を押し逆に完全に失脚させ、実質的なソ連の最高権力者となった。ブルガーニンはこの時フルシチョフ支持を明確にしなかったことが原因で1958年に首相を解任させられる。首相職はフルシチョフが兼任することになり、トロイカ体制は終焉する。
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スターリン死後
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「ドミートリイ・ショスタコーヴィチ」の記事における「スターリン死後」の解説
作品93 - (1953年 - )1953年3月5日、スターリンが死んだ。独裁者の死は、ソビエトの社会に一時の混乱をもたらした。1956年、フルシチョフによって行われた「スターリン批判」により、スターリンの独裁体制は名実ともに崩れ去った。スターリンの死に合わせたように、ショスタコーヴィチは、第9番を最後に中断していた交響曲を書き始め、すぐに発表する。前衛的な作風ではないものの、終始音楽に悲劇的な重さが付きまとう音楽で、自身のイニシャルをドイツ音名にした「DSCH」の音列も頻出する、自伝的な作品である。この作品以降、ショスタコーヴィチの曲には「DSCH」の音列が頻繁に使われるようになる。1950年代も終わり近くになると、ソヴィエトの社会主義体制も次第に軟化しはじめ、アメリカとも協調姿勢をとるようになってゆく。「雪どけ」といわれるこの時期、ショスタコーヴィチが発表を控えていた交響曲第4番などの作品が数十年ぶりに「初演」された。戦前、ショスタコーヴィチが個人批判される元凶となった歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』はそのままの形での上演は絶望的だったものの、ある程度改訂された『カテリーナ・イズマイロヴァ』(作品114)は再上演が許される状態にまでなった。しかし、交響曲第13番の歌詞問題が表面化した頃、キューバへのミサイル配備計画がアメリカに非難されたのをきっかけに「雪どけ」体制は解体され、冷戦の時代に突入する。
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スターリン死後
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その後、独ソ戦期・冷戦期にもベリヤの指導で政治弾圧は続いたものの、大粛清期に比べるとはるかに縮小した。1953年3月5日にスターリンが死去すると、ソ連共産党第一書記になったニキータ・フルシチョフが、大粛清をはじめとするスターリンの個人崇拝政治を批判し(スターリン批判)、これに合わせて、大粛清で処刑・流刑された共産党や赤軍の幹部たちに対する恩赦や名誉回復が始まった。 1964年のフルシチョフの失脚後、レオニード・ブレジネフの政権下では一時名誉回復運動も停滞したが、1985年にはミハイル・ゴルバチョフによって再び「改革派」が勢いづき、スターリン政治の実態が明らかにされる一方で、さらに多くの死亡者たちの名誉が回復された。 一方で、スターリン主義者のヴャチェスラフ・モロトフは、革命後の残敵とファシストの危険を前に、第五列はあってはならなかったのであり、大粛清は必要だったし、正しい政策だったと晩年に語っている。
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