クリミア・タタール人の追放
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「クリミアの歴史」の記事における「クリミア・タタール人の追放」の解説
「クリミア・タタール人追放」も参照 クリミア解放直後の1944年5月18日、スターリンのソ連政府はクリミア・タタール人の全員を中央アジアへと強制移住した。追放は、ナチス・ドイツの占領軍に協力した者がいたことを理由に民族ぐるみの制裁として行われ:483、移住の過程でタタール人のおよそ半数に当たる10万人が飢えと病気で命を落としたといわれる:185。さらに同年6月26日にはアルメニア人、ブルガリア人とギリシア人も同様に中央アジアへ追放された。独ソ戦初期にすでに追放されていたクリミア・ドイツ人(英語版)も含めて、1944年の夏までにクリミアにおける民族浄化が完遂された。スターリン死後も彼らの帰還は認められず、1967年に民族の権利が回復され少数の家族がクリミアに戻ることを許されたものの、本格的な帰還はソ連末期まで法的に禁止されていた:189。1945年6月30日、クリミア自治ソビエト社会主義共和国は廃止され、クリミア州が代わりに設置された。
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