クリミア・タタール人としての苦悩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 17:29 UTC 版)
「アメト=ハン・スルタン」の記事における「クリミア・タタール人としての苦悩」の解説
ソ連がクリミアを解放した少し後、アルプカの家族の安否を確認するために1944年5月18日から20日までの3日間の休暇を取ることが許可された。そこで、彼は自身と同じクリミア・タタール人たちが対独協力の嫌疑をかけられクリミアから追放されているところを目の当たりにし、更に彼の兄イムランがNKVDに指名手配されていることを知った。アメト=ハンがクリミアからドイツ軍を追放するべく心身を危険に晒していた間、イムランはドイツの補助警察(英語版)に加わり、強制収容所の警備に従事していた疑いがあったのだった。クリミアの占領中、アメト=ハン・スルタンの戦功を喧伝するプロパガンダがソ連軍によって空中投下され、その結果、両親はそれを知ったゲシュタポの追及を受けていた。イムランの対独協力は、両親が処刑を逃れるための苦渋の決断だった。家に入ったNKVD将校は、アメト=ハンとその両親にクリミアからの退去を強制しようとしたが、彼らは激しく抵抗した。アメト=ハンは暴行を受けながらも、自分はソ連邦英雄だ、自身の戦果はソ連に公認されたものであると主張した。当時、現場にいたパーヴェル・ゴロバチェフ(英語版)は、NKVDの役員は彼の民族的背景についてアメト=ハンに尋問すると、技術的にはダゲスタン人であると見なし、クリミア・タタール人を国外追放する命令があったと述べた。 NKVDはクリミアのタタール人を国外追放し続け、タタール人であった彼の母親も輸送地点に送られたが、別の民族と結婚している場合は近親者含め国外追放は免除されることになっていたため、アメト=ハンの友人であった他の空軍軍人の説得により彼の母も法的観点からクリミア・タタール人とは見なされず、ウズベキスタン移住を免除された。イムランは強制収容所に警備員として従事していたとして1946年に軍事裁判を受け刑を宣告されたが、残りの近親者は国外追放の全体的な処罰を免れた。それでもまだ残る戦火のため、結局アメト=ハンの家族はクリミアを去らなければならなかったが、ウズベキスタンではなくダゲスタンに向かい、また荷造りと車の運転により多くの時間を与えられた。
※この「クリミア・タタール人としての苦悩」の解説は、「アメト=ハン・スルタン」の解説の一部です。
「クリミア・タタール人としての苦悩」を含む「アメト=ハン・スルタン」の記事については、「アメト=ハン・スルタン」の概要を参照ください。
- クリミア・タタール人としての苦悩のページへのリンク