クリミア・タタール人追放
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クリミア・タタール人追放(クリミア・タタール語: Sürgünlik / Сюргюнлик)とは、クリミア・タタール人とトルコ人が、第二次世界大戦中にソビエト連邦の最高指導者ヨシフ・スターリンによって独ソ戦での対独協力の嫌疑をかけられ、クリミア半島から追放された出来事をいう。
- 1 クリミア・タタール人追放とは
- 2 クリミア・タタール人追放の概要
- 3 関連項目
クリミア・タタール人追放
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「ソビエト連邦における強制移送」の記事における「クリミア・タタール人追放」の解説
「クリミア・タタール人」および「クリミア・タタール人追放」を参照 約183,000人ものクリミア・タタール人の内、全人口の10%にあたる2万人がドイツ軍の大隊に所属していた。そのため、多くのクリミア・タタール人がドイツ軍敗退後、集団懲罰的にウズベクSSRやそのほか辺境地の特別収容所に強制的に移送された。1944年5月に、スターリンによりクリミア・タタール人は対独協力の嫌疑をかけられ、約20万人の全民族が中央アジアやウラル、シベリアに強制移住を余儀なくされた。強制移住の過程で、クリミア・タタール人19万人のうち7万人から9万人が死亡した。30万人が追放され、途中で10万人以上が死亡したともいう。 NKVDのデータによれば、追放後1年半後の死亡率は20%近くに上ったとされる。一方クリミア・タタール人の活動家によれば、クリミア・タタール人追放の場合では46%近くが死亡したという。 ヴャチェスラフ・モロトフはこの強制移送に関する決定について"事実、戦いの最中に集団反逆の報告を受けていた。コーカサス人の大隊が前線で我々の背後から攻撃を行った。これは生死の問題である以上、調査の時間はなかった。もちろん罪なき人々も苦しんだ。その状況を踏まえれば、我々の行動は正しかったと思う。"と正当化した。
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