クリミア・ベッサラビア・カフカースとは? わかりやすく解説

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クリミア・ベッサラビア・カフカース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)

ロシア帝国の歴史」の記事における「クリミア・ベッサラビア・カフカース」の解説

ベッサラビア」も参照 ロシアオスマン帝国勢力圏南方接しており、帝政期通じて戦争繰り返している。17世紀までオスマン帝国国力ロシア圧倒していたが、18世紀後半エカチェリーナ2世在位1762年 - 1796年)の時代ロシア優勢になり、黒海沿岸バルカン半島そしてカフカースオスマン帝国ペルシア領域蚕食しつつ南下するうになる16世紀半ばイヴァン4世アストラハン・ハン国征服したことにより、ロシアヴォルガ水系支配してカスピ海北岸進出するイスラム教国キリスト教国に併合されたことはオスマン帝国にとって衝撃的な事件であり、失敗終わったもののオスマン帝国によるアストラハン・ハン奪回試みなされている。 クリミア半島にはオスマン帝国宗主権下のクリミア・ハン国存在しており、ロシアとの緩衝国役割果たしていた。ピョートル1世在位1682年 - 1725年)はクリミア・ハン国領のアゾフ要塞奪取図り最初の攻撃オスマン軍阻まれたが、本格的な海軍建設した1696年再攻撃でこれを陥落させた。だが、大北方戦争1700年 - 1721年中に発生したプルト川の戦い1711年)でピョートル1世オスマン軍敗北してしまい、アゾフ返還余儀なくされている。 1721年大北方戦争勝利したピョートル1世当時内乱状態にあって弱体化していたペルシア領のカフカース東南部遠征行いバクー占領したしかしながら遠隔地支配当時ロシアにとっては困難であり、ピョートル1世死後の1735年ペルシア返還している。 エカチェリーナ2世時代ロシアは再び南下始め第一次露土戦争1768年-1774年)に勝利したロシア1774年キュチュク・カイナルジ条約クリミア・ハン国オスマン帝国から独立させて保護国となし、1783年併合した。この結果ムスリムイスラム教徒)である多数クリミア・タタール人ロシア臣民となったまた、北カフカースステップ地帯ロシア統治下に入ることになったエカチェリーナ2世寵臣であるポチョムキンクリミア半島経営にあたりロシア人入植開拓進められ黒海におけるロシア海軍根拠地となるセヴァストポリ建設された。1786年エカチェリーナ2世クリミア行幸し、ポチョムキン各地女帝盛大に歓待した。ポチョムキン演出し歓迎する群衆見せかけだけの立派な建物は「ポチョムキン村」と揶揄されることになる。 オスマン帝国クリミア奪回目指し再度開戦した第二次露土戦争1787年1792年)。この戦争ではロシア軍苦戦余儀なくされたが、1791年ヤシ条約締結されロシアは南ブーク川からドニエストル川の間の黒海沿岸地域獲得したロシアはこの地にオデッサ建設したナポレオン戦争中に起った第三次露土戦争1806年1812年)の結果締結されブカレスト条約により、モルダヴィア東部オスマンベッサラビアロシア併合された。ロシアはこの地域全体ベッサラビア呼び住民ラテン文字替えてキリル文字用いようになった。後に、この地域多数派住民が(ルーマニア語とは異なる)モルドバ語使用する独自のモルドバ人なのか、それともルーマニア人の1グループであるのかを巡って歴史的な論争生じることになる。(モルドバの言語・民族性問題ロシアベッサラビア地方領土変遷 1812年以前ドニエストル川東側ロシア帝国西側オスマン帝国属国モルダヴィア公国存在し南部オスマンベッサラビアブジャク地域に相当)だった。 1812年ブカレスト条約により、プルト川以東モルダヴィア公国領とオスマン領がロシア併合された。さらに1829年アドリアノープル条約ドナウ河口がロシアとなったクリミア戦争結果1856年結ばれたパリ条約によってベッサラビア南部モルダヴィア公国領(1859年ワラキア公国同君連合1861年ルーマニア公国)となる。 露土戦争ロシア勝利し1878年サン・ステファノ条約ベッサラビア南部ロシア領に復帰した18世紀ザカフカース南コーカサスカフカース山脈南側現在のアゼルバイジャンアルメニアグルジア地域)は西グルジアオスマン帝国支配それ以外ペルシア支配していた。この地域グルジア人正教徒であり、アルメニア人は独自のアルメニア教会属しており、イスラム教国支配下置かれていた。1783年ロシアはカルトリ・カヘティア王国英語版)(東グルジア)を保護国となしたが、1794年新興ガージャール朝ペルシア征服されてしまう。エカチェリーナ2世死去するロシア影響力一時的に後退したが、混乱状態になっていたカルトリ・カヘティアはロシア保護求め1801年併合実施された。イメレティ王国英語版)(西グルジア)もロシア従属し1810年までにグルジアのほぼ全域併合されている。 ペルシアとの戦争勝利したロシア1813年アゼルバイジャン北部併合したペルシアは再びロシア開戦する敗れ第二次ロシア・ペルシア戦争1826年1828年)、1828年トルコマーンチャーイ条約により、ロシアはエレバン・ハン国(英語版)とナヒチェヴァン・ハン国(英語版)を併合してアルメニア州設置した露土戦争(1877年 - 1878年)勝利したロシアはアジャール地方獲得グルジア征服完了している。 一方北カフカースでは山岳諸民族ロシアの支配対す抵抗続けており、1820年代末から1830年代ダゲスタンチェチェンの地にイマーム国(英語版)を建設していた。第3代イマーム・シャミールの指導のもとで山岳諸民族頑強に抵抗しており、ロシア軍との戦争泥沼化して半世紀近く続くことになる(カフカース戦争1817年-1864年)。1856年クリミア戦争が終わるとロシア軍討伐本格化させ、1859年シャミール投降し1861年カフカース全土平定された。農奴解放が行われた1860年代以降ロシア人ウクライナ人北カフカース入植増え先住諸民族に対して数的に圧倒するようになっているロシア帝国グルジアチフリストビリシ)にカフカス総督府英語版)を置いてこの地域の支配拠点となし、カフカース諸民族に対して徹底的な抑圧ロシア化政策行った農奴解放1866年グルジア1870年から1883年にかけてアゼルバイジャンアルメニア行われたが、ザカフカース農民多く土地を失う結果となり、1917年帝政崩壊時まで土地買戻金の支払いができずにいた。この地域では1870年代以降アゼルバイジャンバクー油田急速に発展し20世紀はじめには世界石油生産半分占めるまでになっているザカフカースでは労働運動社会主義運動活発になり、1905年革命ロシア革命の際にはバクー油田労働運動重要な役割果たしている。グルジア出身革命家中に後にソビエト連邦指導者となるヨシフ・スターリン本名ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ)がいた。この一方で、この時期ムスリムアルメニア人との衝突起こっており、後の民族紛争始まりともなっている。 第一次世界大戦勃発するカフカースロシア軍オスマン軍との戦場になった大戦中にオスマン領のアルメニア人大量虐殺される事態になっているアルメニア人虐殺)。1817年二月革命帝政倒れるとカフカース総督府消滅した南カフカースでは、1918年4月民族主義者たちがザカフカース民主連邦共和国建国するが短命に終わりメンシェヴィキ政権グルジア民主共和国民族主義者によるアゼルバイジャン民主共和国アルメニア共和国成立しボリシェヴィキ政権バクー・コミューンのみであったオスマン帝国との戦争継続しており、民族間の対立加えて外国軍白衛軍干渉もあり、この地域では混沌とした状態が続いている。ボリシェヴィキがこの地域権力確立するのは1920年になってからで、4月アゼルバイジャン12月アルメニアソビエト権力樹立された。ソビエト共和国囲まれグルジアメンシェヴィキ政権のみが残されたが、1920年末にクリミアヴラーンゲリ軍が崩壊したことにより孤立無援となり、1921年2月赤軍制圧された。ザカフカースにはソビエト連邦構成するザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国建国された。 北カフカースでは諸民族連合による北カフカース山岳民族連合共和国英語版)や北カフカース・アミール国成立して独立宣言するが、1919年から1920年までに赤軍によって占領解体されている。 十月革命後ベッサラビアソビエト政権との合併宣言するが、ルーマニア軍進駐して1918年列強国承認受けて併合された。

※この「クリミア・ベッサラビア・カフカース」の解説は、「ロシア帝国の歴史」の解説の一部です。
「クリミア・ベッサラビア・カフカース」を含む「ロシア帝国の歴史」の記事については、「ロシア帝国の歴史」の概要を参照ください。

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