クリミア・ベッサラビア・カフカース
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「ロシア帝国の歴史」の記事における「クリミア・ベッサラビア・カフカース」の解説
「ベッサラビア」も参照 ロシアとオスマン帝国の勢力圏は南方で接しており、帝政期を通じて戦争を繰り返している。17世紀まではオスマン帝国の国力がロシアを圧倒していたが、18世紀後半のエカチェリーナ2世(在位1762年 - 1796年)の時代にロシアが優勢になり、黒海沿岸、バルカン半島そしてカフカースのオスマン帝国やペルシアの領域を蚕食しつつ南下するようになる。 16世紀半ば、イヴァン4世がアストラハン・ハン国を征服したことにより、ロシアはヴォルガ水系を支配して、カスピ海北岸に進出する。イスラム教国がキリスト教国に併合されたことはオスマン帝国にとって衝撃的な事件であり、失敗に終わったもののオスマン帝国によるアストラハン・ハン奪回の試みもなされている。 クリミア半島にはオスマン帝国宗主権下のクリミア・ハン国が存在しており、ロシアとの緩衝国の役割を果たしていた。ピョートル1世(在位1682年 - 1725年)はクリミア・ハン国領のアゾフ要塞奪取を図り、最初の攻撃はオスマン軍に阻まれたが、本格的な海軍を建設した1696年の再攻撃でこれを陥落させた。だが、大北方戦争(1700年 - 1721年)中に発生したプルト川の戦い(1711年)でピョートル1世はオスマン軍に敗北してしまい、アゾフの返還を余儀なくされている。 1721年に大北方戦争に勝利したピョートル1世は当時内乱状態にあって弱体化していたペルシア領のカフカース東南部へ遠征を行い、バクーを占領した。しかしながら、遠隔地の支配は当時のロシアにとっては困難であり、ピョートル1世の死後の1735年にペルシアに返還している。 エカチェリーナ2世の時代にロシアは再び南下を始め、第一次露土戦争(1768年-1774年)に勝利したロシアは1774年のキュチュク・カイナルジ条約でクリミア・ハン国をオスマン帝国から独立させて保護国となし、1783年に併合した。この結果、ムスリム(イスラム教徒)である多数のクリミア・タタール人がロシアの臣民となった。また、北カフカースのステップ地帯がロシアの統治下に入ることになった。 エカチェリーナ2世の寵臣であるポチョムキンがクリミア半島の経営にあたり、ロシア人の入植と開拓が進められ、黒海におけるロシア海軍の根拠地となるセヴァストポリが建設された。1786年にエカチェリーナ2世はクリミアを行幸し、ポチョムキンは各地で女帝を盛大に歓待した。ポチョムキンが演出した歓迎する群衆や見せかけだけの立派な建物は「ポチョムキン村」と揶揄されることになる。 オスマン帝国はクリミア奪回を目指して再度開戦した(第二次露土戦争:1787年 – 1792年)。この戦争ではロシア軍は苦戦を余儀なくされたが、1791年にヤシ条約が締結され、ロシアは南ブーク川からドニエストル川の間の黒海沿岸地域を獲得した。ロシアはこの地にオデッサを建設した。 ナポレオン戦争中に起った第三次露土戦争(1806年 – 1812年)の結果、締結されたブカレスト条約により、モルダヴィア東部とオスマン領ベッサラビアがロシアに併合された。ロシアはこの地域全体をベッサラビアと呼び、住民はラテン文字に替えてキリル文字を用いるようになった。後に、この地域の多数派住民が(ルーマニア語とは異なる)モルドバ語を使用する独自のモルドバ人なのか、それともルーマニア人の1グループであるのかを巡って歴史的な論争が生じることになる。(モルドバの言語・民族性問題) ロシア領ベッサラビア地方の領土変遷 1812年以前。ドニエストル川の東側がロシア帝国、西側にオスマン帝国の属国モルダヴィア公国が存在し、南部はオスマン領ベッサラビア(ブジャク地域に相当)だった。 1812年のブカレスト条約により、プルト川以東のモルダヴィア公国領とオスマン領がロシアに併合された。さらに1829年のアドリアノープル条約でドナウ河口がロシア領となった。 クリミア戦争の結果、1856年に結ばれたパリ条約によってベッサラビア南部がモルダヴィア公国領(1859年にワラキア公国と同君連合、1861年にルーマニア公国)となる。 露土戦争にロシアが勝利し、1878年のサン・ステファノ条約でベッサラビア南部がロシア領に復帰した。 18世紀のザカフカース(南コーカサス:カフカース山脈の南側、現在のアゼルバイジャン、アルメニア、グルジアの地域)は西グルジアをオスマン帝国が支配、それ以外をペルシアが支配していた。この地域はグルジア人が正教徒であり、アルメニア人は独自のアルメニア教会に属しており、イスラム教国の支配下に置かれていた。1783年にロシアはカルトリ・カヘティア王国(英語版)(東グルジア)を保護国となしたが、1794年に新興ガージャール朝ペルシアに征服されてしまう。エカチェリーナ2世が死去するとロシアの影響力は一時的に後退したが、混乱状態になっていたカルトリ・カヘティアはロシアの保護を求め、1801年に併合が実施された。イメレティ王国(英語版)(西グルジア)もロシアに従属し、1810年までにグルジアのほぼ全域が併合されている。 ペルシアとの戦争に勝利したロシアは1813年にアゼルバイジャン北部を併合した。ペルシアは再びロシアと開戦するが敗れ(第二次ロシア・ペルシア戦争: 1826年 – 1828年)、1828年のトルコマーンチャーイ条約により、ロシアはエレバン・ハン国(英語版)とナヒチェヴァン・ハン国(英語版)を併合してアルメニア州を設置した。露土戦争(1877年 - 1878年)に勝利したロシアはアジャール地方を獲得、グルジア征服を完了している。 一方、北カフカースでは山岳諸民族がロシアの支配に対する抵抗を続けており、1820年代末から1830年代にダゲスタン、チェチェンの地にイマーム国(英語版)を建設していた。第3代イマーム・シャミールの指導のもとで山岳諸民族は頑強に抵抗しており、ロシア軍との戦争は泥沼化して半世紀近く続くことになる(カフカース戦争:1817年-1864年)。1856年にクリミア戦争が終わるとロシア軍は討伐を本格化させ、1859年にシャミールは投降し、1861年にカフカース全土が平定された。農奴解放が行われた1860年代以降、ロシア人とウクライナ人の北カフカース入植が増え、先住の諸民族に対して数的に圧倒するようになっている。 ロシア帝国はグルジアのチフリス(トビリシ)にカフカス総督府(英語版)を置いてこの地域の支配の拠点となし、カフカース諸民族に対して徹底的な抑圧とロシア化政策を行った。農奴解放は1866年にグルジア、1870年から1883年にかけてアゼルバイジャンとアルメニアで行われたが、ザカフカースの農民の多くが土地を失う結果となり、1917年の帝政崩壊時まで土地買戻金の支払いができずにいた。この地域では1870年代以降、アゼルバイジャンのバクー油田が急速に発展し、20世紀はじめには世界の石油生産の半分を占めるまでになっている。 ザカフカースでは労働運動・社会主義運動が活発になり、1905年革命やロシア革命の際にはバクー油田の労働運動が重要な役割を果たしている。グルジア出身の革命家の中に後にソビエト連邦の指導者となるヨシフ・スターリン(本名ヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ)がいた。この一方で、この時期にムスリムとアルメニア人との衝突が起こっており、後の民族紛争の始まりともなっている。 第一次世界大戦が勃発するとカフカースはロシア軍とオスマン軍との戦場になった。大戦中にオスマン領のアルメニア人が大量虐殺される事態になっている(アルメニア人虐殺)。1817年の二月革命で帝政が倒れるとカフカース総督府も消滅した。 南カフカースでは、1918年4月に民族主義者たちがザカフカース民主連邦共和国を建国するが短命に終わり、メンシェヴィキ政権のグルジア民主共和国、民族主義者によるアゼルバイジャン民主共和国とアルメニア共和国が成立し、ボリシェヴィキ政権はバクー・コミューンのみであった。オスマン帝国との戦争は継続しており、民族間の対立に加えて外国軍や白衛軍の干渉もあり、この地域では混沌とした状態が続いている。ボリシェヴィキがこの地域で権力を確立するのは1920年になってからで、4月にアゼルバイジャン、12月にアルメニアでソビエト権力が樹立された。ソビエト共和国に囲まれたグルジアのメンシェヴィキ政権のみが残されたが、1920年末にクリミアのヴラーンゲリ軍が崩壊したことにより孤立無援となり、1921年2月に赤軍に制圧された。ザカフカースにはソビエト連邦を構成するザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国が建国された。 北カフカースでは諸民族の連合による北カフカース山岳民族連合共和国(英語版)や北カフカース・アミール国が成立して独立を宣言するが、1919年から1920年までに赤軍によって占領・解体されている。 十月革命後にベッサラビアはソビエト政権との合併を宣言するが、ルーマニア軍が進駐して1918年に列強国の承認を受けて併合された。
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