バクー・コミューン
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「ナリマン・ナリマノフ」の記事における「バクー・コミューン」の解説
1916年12月、ナリマノフは、バクーにおけるボリシェヴィキの党組織の中核である「人民の家」の理事に選出された。1917年3月、彼はロシア社会民主労働党のバクー委員会のメンバーとなった。同年4月から12月まではにはヒンメト委員会議長に就任し、『ヒンメト』紙の編集長も務めた。4月15日から20日にかけてバクーでカフカース・ムスリム大会(アゼルバイジャン語版)が開かれた際にも、その幹部会メンバーに選出されている。 1918年3月30日、ナリマノフはシャウミャン、ジャパリゼ、グリゴリー・コルガノフらとともにバクー革命防衛委員会を結成。 3月下旬と4月上旬に、バクー・コミューンはアルメニア人によるダシュナク党の軍隊の支援を得て、バクー市内で三月事件(ロシア語版)と呼ばれるアゼルバイジャン人の大量虐殺を行い、その結果としてバクーに自身の権力基盤を確立した。ナリマノフはバクー・コミューンにおいて4月から6月まで都市経済委員に就いた。 三月事件の初日にダシュナク党はナリマノフ家のアパートに攻撃を仕掛けたが、ナリマノフとその家族は、バクー・コミューン指導者であった旧友シャウミャンが差し向けた赤衛隊(ロシア語版)によって、安全なシャウミャン家へ避難することができ、三月事件の間もメシャジ・アジズベコフの一家とともに保護された。事件後の5月26日から28日にかけて開催されたバクー地区農民代表ソビエト大会では議長を務め、アジズベコフ、ダダシュ・ブニアザーデ、ミル・ガサン・ヴェジロフらとともに執行委員に選出されている。 その後、ナリマノフは同年夏にシャウミャンの勧めによって病気療養のためロシアへと送られた。そして、翌1919年からロシア社会主義連邦ソビエト共和国外務人民委員部(ロシア語版)中東部部長、ロシア連邦共和国民族問題副人民委員を務め、同年12月からはカフカース革命委員会(ロシア語版)北カフカース・ソビエト権力回復担当局やボリシェヴィキ中央委員会カフカース局(英語版)、ザカフカース地方委員会のメンバーを歴任した。
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