バクーニン主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:34 UTC 版)
「第一インターナショナル」の記事における「バクーニン主義」の解説
ミハイル・バクーニンはロシア貴族の出であるが、役人になってロシアによるポーランド支配に当たるにつれて次第に政治に疑問を抱き、ついに革命家となっていった。1848年革命の混乱の中で革命運動に参加したことが角で死刑を宣告されたが、ロシア政府に引き渡されて1855年にはシベリアに流刑となっている。1861年、バクーニンは収容所を脱走して日本とアメリカを経てヨーロッパに帰還している。バクーニンはプルードンの弟子で、反権力の思想や自由な生産者の連帯にもとづく理想の未来社会というヴィジョンを柱とするアナーキズム思想を継承した。 ただ、バクーニンは労働組合の発展期のなかで労働運動の役割を評価する立場をとっており、組合を通じて生産共同体をつくり、その連合に新社会の基礎を見出していた。バクーニン主義の綱領は、無神論、国家の廃棄、暴力革命、労働組合を単位とする生産共同体、共同体の同盟による緩やかな統合を謳うものであった。また、バクーニンは反権力の立場から、マルクスの理論に反対して権力集中の危険性を説いた。マルクスは、移行段階の国家形態として、プロレタリアートがブルジョアを逆搾取していくための国家形態「社会主義国家」を新社会のモデルに据えており、そのための政府モデルとしてプロレタリアート独裁の概念を提唱していた。しかし、バクーニンはマルクスの国家理論に反対であった。バクーニンは、社会の末端の下層労働者が革命の担い手だと考えており、暴力革命による権力の転覆を支持する一方で、マルクスが説くような権力主導の理想(共産主義社会というユートピア)実現にはどうしても賛同できなかったのである。また、マルクスは、プロレタリアート独裁を提唱する傍ら自身が説く革命独裁には拘っておらず、議会や政府を通じて民主的な方法で社会主義政策を遂行する方向も認めていた。バクーニンはこうした現状肯定的な態度にも反対していた。彼はあくまでも暴力革命を説き、現状との妥協や支配階級に対する説得や交渉といった理性的手段には断固反対で、その思想には柔軟性には欠いた。 バクーニンとマルクスの思想的、運動実践上の相違はIWAを二分する論争へと発展、組織内で最大の衝突をもたらし、ついに組織の解体を招いていく。 「ミハイル・バクーニン」および「社会主義国」も参照
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