ロンドン協議会とソンヴィリエ通達
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「第一インターナショナル」の記事における「ロンドン協議会とソンヴィリエ通達」の解説
パリ・コミューン崩壊後、IWAに対する逆風は強まっていった。IWAは各国政府からテロ組織として見なされ、会員となった個人・団体は監視の対象となっていく。1871年、フランス政府はIWA加入を犯罪とする法令を発布した。加えて、この法律はコミューンの亡命戦士たちの引き渡しを要求していた。ドイツではベーベルとリープクネヒトが逮捕され、二年の禁固刑を宣告された。このようにマルクス派指導者が逮捕されて指導部を失ったため、IWA内部での対立も高まっていく。各国でも状況は悪化を辿り、アメリカでは全国労働総同盟が勢力を失い、イギリスでは分派が著しい状況に陥っていた。 バクーニン一派はパリ・コミューン革命に関する独自の見解を提示し、マルクス主義に対抗しようとしていた。すなわち、革命とは自然発生するもので、下層の民衆による蜂起による権力の転覆と廃止が本来の姿であると見なしたのである。パリ・コミューンはマルクスに社会主義国家像の形成を促す一方で、その闘争はアナーキズムの宣伝に活用されたのである。フランスのプルードン主義やブランキ主義が勢力を失うのにしたがってバクーニン主義は勢いを強めていった。 マルクスとバクーニンは、1864年11月3日にロンドンで友好的に会見して以来、顔を合わせることがなかったが、年々その対立が深まっていた。思想的にも政治的にもライヴァル関係にあった。1871年9月17日から23日、ロンドンにおいて、17名の中央評議会の委員とマルクス、エンゲルスらをはじめとする23人の主席者で臨時会議が開かれた。ロンドン協議会での主たる討議内容は、IWA内部のバクーニン派勢力とアナーキズムの思想―とりわけ、「政治不参加主義」の駆逐であった。労働者政党の組織化を前提とした政治運動の必要性が再度唱えられた。 協議会は布告を発し、以下の三点が確認された。労働者階級が支配階級の権力に対抗するには、旧来の政党とは異なる独立した労働者党が必要であること。社会革命とその終局目標―階級の廃止―との勝利を確保するために不可欠であること。労働組合をはじめ経済闘争のための組織と団結を政治闘争の梃子にするべきこと。以上の観点から「その経済運動とその政治活動とは切り離せないように結びついていることにインターナショナル会員の注意を促す」ということが確認された。また、バクーニンとその支持者であるスイスのジュラ連合(英語版)に関する報告がなされたほか、選挙でのドイツ社会民主労働者党の勝利が祝された。バクーニン一派の追放が会議の眼目になっていた。これに対して、1871年12月、バクーニンもマルクス派に応酬すべく大会の即時招集を要求し、マルクスが牛耳る中央評議会の専制を非難する『ソンヴィリエ通達』という文書をあらゆる国の支部会に送った。
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