バクーでの活動
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「メシャジ・アジズベコフ」の記事における「バクーでの活動」の解説
1908年に技術学校を卒業してからはバクーで教師として働いていたが、1910年には市議会の労働者代表議員に選出された。また、バクーの貧困層を支援するために文化教育団体を組織し、1913年から翌1914年にかけてストライキを組織し、第一次世界大戦時には多くの難民や負傷者を、彼らの国籍を問わず助けた。同時期に作家のジャリル・マンマドグルザーデ(英語版)から教育問題への貢献を賞して『モッラー・ナスレッディン(英語版)』紙の創刊号を贈られている。 1917年からバクー・ソビエトのメンバーとなり、同年9月にはバクー油田のゼネストを主導。翌1918年3月に発生したミュサヴァト党による反乱を鎮圧し、バクー・コミューンが発足するとその県委員および内務副委員に就任した。5月からはバクー郡農民ソビエト執行委員会議長となる。この際に結成された革命防衛委員会から、アジズベコフは、スラハニ県(アゼルバイジャン語版)から離れ「革命の秩序を回復し、国際的な労働者組織を強化」するよう命じられた。アジズベコフは農民ソビエトの組織と反地主闘争の指揮を行った。アジズベコフの組織的宣伝活動について『バキンスキー・ラボーチー』紙は次のように書いている。 イスラム教徒の村で農民を組織する特別な手腕を買われ、我らが同志メシャジ・アジズベコフが地方人民委員に近日任命される。彼は数日かけて村々を回り、奴隷化されたイスラム教徒の大衆に、彼らの階級敵に対してロシアの民主主義勢力と連携して闘うよう、ソビエト政府に代わって訴えた。同志アジズベコフの盛んな活動はすでに大きな成果を生み出している。執行委員会は農村社会でのソビエト権力の影響を認めることを決定した。 その後、バクー・コミューンで左派が権力を失うと、同年7月31日にアジズベコフたちはカスピ海を渡ってアストラハンへの逃亡を試みた。しかし8月16日に社会革命党に捕らえられ、9月20日夜にカスピ海横断鉄道のペレヴァル駅とアフチャ・クイマ駅の間(クラスノヴォツクからおよそ220キロメートルの地点)で処刑された。 ロシア内戦後、ソ連政府によって発見されたコミッサールの遺体は一度はバクーに葬られたが、2009年にアゼルバイジャン当局によって掘り起こされ、ヒョヴサン(アゼルバイジャン語版)へ改葬された。アジズベコフの親族は彼がスヴェランの母の墓の隣に改葬されることを望んでいたが、当局はそれを無視し、彼らに一切情報を与えなかった。そのためにアジズベコフの墓所の正確な位置は今や特定することが不可能になっている。
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