スターリン線突破
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 01:57 UTC 版)
「レニングラード包囲戦」の記事における「スターリン線突破」の解説
西ドヴィナ川右岸の橋頭保は拡大され、レープはスターリン線の突破に再び装甲兵力を用いた。7月2日、ラインハルトがオストロフを落とした。赤軍は機械化部隊をオストロフにむけたが、待ち伏せていたドイツ軍の榴弾砲部隊に叩かれ、140両の戦車を破壊された。7月8日、プスコフを占領してスターリン線に穴を開け、7月11日、チュード湖を抜けて、ブリュッサ川の橋梁を確保した。ラインハルトは兵士を鼓舞して、さらに進撃し、7月13日、レニングラードの玄関であるルーガ河に橋頭保を確保した。赤軍の守備隊はあまりの速さに対応出来ず、その神速さは偵察機がラインハルトの装甲部隊を味方と見間違えるほどだった。彼らは三週間で800キロ進撃し、レニングラードまで110キロの地点に迫っていた。しかし他の諸軍は進撃が難航し、第18軍はナルヴァの赤軍陣地に足止めされ、マンシュタインは地図に載っていない沼沢地に入り込み、ラインハルトに比べて100キロ遅れていた。赤軍は装甲部隊が動けない沼沢地を最大限利用し、マンシュタインの進撃を妨害した。地形に溶け込んだ赤軍の歩兵部隊はドイツ軍の急造陣地に巧みに潜入し、執拗に攻撃を繰り返した。砲兵も最前線で戦う始末であり、機関銃の掃射で砲兵の犠牲が続出した。装甲部隊は沼沢地で原始的な白兵戦を強いられ、第8装甲師団が孤立した。マンシュタインは増援を繰り出して、第8装甲師団を救い出し、ようやく沼沢地を抜け出したが、第8装甲師団は半数の戦車を失っていた。ルーガ河対岸を確保したラインハルトも稼働戦車は50両に激減し、これ以上の進撃は困難だった。装甲部隊の消耗はドイツ軍の戦略を転換させ、確保した橋頭保の守備に全力を注ぎ、さらなる進撃は見送られた。7月19日、ヒトラーは総統訓令33号を発令、北方軍集団の戦いぶりを称賛しつつ、装甲部隊の再進撃は歩兵軍が追いつくのを待つようにと釘をさした。赤軍の頑強な抵抗と、戦闘の激化は人種的偏見を増幅させた。各部隊で投降した赤軍捕虜を射殺する虐殺事件が発生、第16軍は捕虜への暴行を禁止する異例の布告を出さざるをえなかった。また膨大な赤軍捕虜は徒歩で収容所へと送られた。人種的偏見から車両を汚染すると警戒され、第16軍司令部は捕虜を列車で輸送することを禁止した。軍に同行する特別行動部隊も任務を拡張し、ユダヤ人と政治委員に加え、ソ連の高官、財界の重鎮、地方の有力者、知識人を「浄化」の対象として虐殺した。第4装甲集団のヘプナー上級大将は特別行動部隊に全面的に協力し、ラインハルトがルーガ地区をおさえると、大規模なSSコマンドが同地に送られた。レニングラード突入に備えて、市内の浄化対象が決定され、情報収集が盛んに行われた。第18軍がルーガ河に到達し、第16軍がイリメン湖にまわると、8月2日、装甲部隊は進撃を再開した。ラインハルトの前に、赤軍の2個歩兵師団が立ちふさがり、頑強に抵抗した。あまりの激戦に、特別行動部隊までもが戦闘に参加、12日間の戦闘でようやく抵抗線を抜くことが出来た。一方赤軍は、デミャンスクを奪取して、イリメン湖とチュード湖の隘路を封鎖し、ドイツ軍を分断する反撃計画を立てた。スタラヤ・ルッサを攻撃中だった第16軍の側面に、9個歩兵師団、1個機械化軍団、1個騎兵師団が投入し、4個歩兵師団をイリメン湖に追い詰め包囲した。へプナーはサムロ湖に到達したマンシュタインに第16軍の救援を命じ、マンシュタインはイリメン湖に急行した。現場に到着したマンシュタインは、孤立した4個歩兵師団(1個師団に減っていた)に反撃を命じ、自ら装甲兵力を指揮して赤軍の背後に突入した。赤軍は総崩れとなって敗走し、マンシュタインは東方からレニングラードに接近し、補給路を遮断する動きが可能となった。イリメン湖での勝利後、ドイツ軍は消耗の激しい都市攻略戦を避け、補給路を遮断する封鎖戦へと戦略を転換させた。マンシュタインの第56装甲軍団と第16軍は快進撃を続け、ノブゴロド、チュードヴォ、ムガーを落とし、東方からレニングラードに迫った。西方からはラインハルトが指揮する第41装甲軍団が迫り、9月8日にはレニングラードと内陸部を繋いでいたラドガ湖畔のシュリッセルブルクが陥落、全ての連絡路・補給路が断たれた。北方では冬戦争の雪辱に燃えるフィンランド軍が封鎖に参加した。6月26日、フィンランドはソ連に対して宣戦を布告し、冬戦争の際にソ連に奪われたカレリア地方へ侵攻した(継続戦争)。フィンランド軍は9月7日までにレニングラードの北160kmまで到達したが、冬戦争以前の国境線を越えて前進することは控えた。9月4日にドイツ軍のアルフレート・ヨードルはフィンランド軍総司令官のマンネルヘイムを訪れ、レニングラードへの攻撃を要請したが、マンネルヘイムはこれを拒絶した。その後もドイツ軍とフィンランド軍との連絡が完成されることはなかった。
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