戦闘の激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 05:29 UTC 版)
とかくする間、ブダペストでの市街戦は激化しており、包囲開始直前の1944年12月27日にはすでにフェリヘジ空港(現在のフェレンツ・リスト国際空港)を喪失していたため、枢軸軍にとって輸送問題は決定的な要素であった。1945年1月9日まで、ドイツ軍はブダ城に隣接する公園、大通りを利用していくつかを航空機、グライダーの発着場としていたが、常に赤軍の砲撃に悩まされていた。また、ドナウ川が凍るまでは暗闇と霧を利用していくつかの必需品をはしけで輸送することも行っていた。 それらの努力が行われたにも関わらず、食料不足はますます悪化、兵士は食料も自ら探し出さなければならなくなり、何人かは自らが所有する馬を食べざるを得なかった。そして極端な寒さはドイツ・ハンガリー両軍将兵に大きな影響を及ぼした。 赤軍はドイツ軍がスターリングラードと同じ状況にあると素早く判断した。また、彼らは進撃に狙撃兵や工兵らを用いることにより、地形を利用することができた。さらに枢軸軍と赤軍の双方で展開を有利にするため、下水道を用い、その内外で戦うこともあった。ソ連海軍歩兵6名がどうにかブダ城の丘へ到着、その後、地下の自軍へ戻る前にドイツ軍将校を捕虜とした。しかし、ブダペスト包囲戦における下水道での戦いは、概して地元住民の手引きを受けられる枢軸側のほうが有利であった。 1月中旬、赤軍による砲火の下、パンツァーファウストと砲弾を製造していた工場とチェペル島が奪取された。一方、ペシュトでは赤軍の進撃により、防衛部隊は半減、状況は悪化していた。 1945年1月17日、ヒトラーはブダの防衛のためにペシュトから全ての残存部隊を撤退させることに同意、ドナウ川にかかる5つの橋は全て渋滞を引き起こしながらも将兵、民間人らは避難した。1945年1月18日、ハンガリー軍将校の抗議にも関わらず、ドイツ軍は5つの橋を爆破した。
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