薩軍の八代急襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
この頃、薩軍は田原方面での戦闘の激化に伴って兵力が不足してきたため、桐野の命で淵辺群平・別府晋介・辺見十郎太らが鹿児島に戻って新たな兵力の徴集にあたった。3月25日、26日の両日で1500名ほどを徴兵し9番10番大隊を編成したものの、衝背軍が八代に上陸し、宇土から川尻へと迫っていたため、この兵力は熊本にいる薩軍との合流ができなかった。31日に協同隊の宮崎八郎が来着し、桐野からの指示を受け人吉から下って、衝背軍の兵站基地となっていた八代を攻撃し、衝背軍の退路を断って孤立させるという作戦の下で行動することになった。 4月4日、人吉から球磨川に沿い、或いは舟で下って八代南郊に出た薩軍は、まず坂本村の衝背軍(別働第2旅団の1個中隊)を攻撃して敗走させたのを皮切りとして、5、6日と勝利を収め、八代に迫ったが、7、8日の衝背軍の反撃によって八代に至ることができず、再び坂本付近まで押し戻された。4月11日、再び薩軍は八代を攻撃。疲労もあって衝背軍が一時敗退したが、13日に援軍が投入され、薩軍・衝背軍共に引かず、4月17日までこの状態が続いた。17日、1個大隊に薩軍の右翼を付かせる作戦が成功して衝背軍が有利となり、薩軍は敗走した。この間の萩原堤での戦いのとき協同隊の宮崎八郎が戦死し、別府晋介が足に重傷を負った。
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