薩長同盟と幕長戦争(1864年 - 1866年)
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「幕末」の記事における「薩長同盟と幕長戦争(1864年 - 1866年)」の解説
逆賊となった長州藩に長州への征伐が発令され、総大将に徳川慶勝(尾張藩主)、副将に松平茂昭(福井藩主)、参謀に西郷隆盛(薩摩藩士)が任命された。元治元年9月大坂での勝海舟との会談を経て長州藩への実力行使の不利を悟った西郷は開戦を回避し、長州藩からの謝罪を引き出す方針をとる。四国艦隊下関砲撃事件での敗戦以降、松下村塾系の下級藩士を中心とした攘夷派勢力が後退し、椋梨藤太ら譜代家臣を中心とする俗論派が擡頭していた。幕府への恭順路線を貫き、責任者の処刑など西郷が提示した降伏条件の受け入れを承認したため、第1次長州征伐は回避されることとなった。 しかし長州藩内で旧攘夷派の粛清が続くなか、同年末に野村望東尼に激励された高杉晋作が奇兵隊などの諸隊を糾合し長府功山寺にて挙兵(功山寺挙兵)。翌年初頭、藩中枢部の籠もる萩城を攻撃し、俗論派を壊滅させて再び藩論を反幕派へ奪回した。藩論の再転換により、既定の降伏条件を履行しない長州藩へのいらだちは高まり、小笠原長行・勘定奉行小栗忠順ら強硬派による長州再征論が浮上し、将軍家茂は再度上洛する。 一方、安政条約に明記されながらいまだに朝廷の許可が無いため開港されていなかった兵庫(神戸港)問題を巡って、英国公使パークスが主導する英仏蘭連合艦隊が1865年11月4日(慶応元年9月16日)、兵庫沖に迫った(兵庫開港要求事件)。攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。譲歩案として英国は下関戦争賠償金の引き下げに応じる姿勢も見せた。幕府主導の外交を狙う老中阿部正外・松前崇広らはこの動きに対して幕府単独の開港方針を決めるが、朝廷との連携を重視する徳川慶喜は難色を示す。独断で兵庫開港を決めた阿部・松前に対して朝廷から老中罷免の令が出されるという異常事態となった朝廷による現実の幕政介入という事態に、慶喜に対する疑念が幕臣たちの間で深まり、家茂が将軍辞職を漏らすなどの混乱がおきた。慶喜は家茂を説得する一方で条約勅許、兵庫開港をめぐって在京の諸藩士を集めた上で、11月22日(慶応元年10月5日)朝廷に条約勅許を認めさせた(兵庫開港は延期)。また関税改正の合意を得るというイギリスの目的も達成されたことで四国艦隊は兵庫沖から去った。翌1866年6月25日(慶応2年5月13日)に改税約書が調印され、輸入関税が大幅に引き下げられたことにより、日本の輸入は急増した。大量生産による安価な綿製品に太刀打ち出来ず、日本の手工業的綿織物は大打撃を受けた。 こうしたなか、薩摩藩は徐々に幕府に非協力的な態度を見せ始め、駐日公使ハリー・パークス、アーネスト・サトウの助言のもと、長州藩との提携を模索する。薩摩藩の庇護下にあった土佐浪士坂本龍馬や、同じく土佐浪士で下関に逼塞していた三条実美らに従っていた中岡慎太郎らが周旋する形で、薩摩長州両藩の接近が図られる。逆賊に指名され表向き武器の購入が不可能となっていた長州藩に変わって薩摩が武器を購入するなどの経済的な連携を経た後、1866年3月7日(慶応2年1月21日)、京都薩摩藩邸内で木戸孝允・西郷らが立ち会い、薩長同盟の密約が締結された。 偶然ではあるが、幕府は薩長同盟が締結された翌日に第二次長州征伐を発令した。7月18日(慶応2年6月7日)に開戦するが、薩摩との連携後軍備を整え、大村益次郎により西洋兵学の訓練を施された長州の諸隊が幕府軍を圧倒。各地で幕府軍の敗報が相次ぐなか、1866年8月29日(慶応2年7月20日)家茂が大坂城で病死。徳川宗家を相続した慶喜は親征の意志を自ら見せるものの、一転して和睦を模索し、広島で幕府の使者勝海舟と長州の使者広沢真臣・井上馨らの間で停戦協定が結ばれ、第二次長州征伐は終焉を迎えた。
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