薩英戦争前後とは? わかりやすく解説

薩英戦争前後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 09:21 UTC 版)

アーネスト・サトウ」の記事における「薩英戦争前後」の解説

1863年8月生麦事件第二次東禅寺事件に関する幕府との交渉妥結した後、ニール薩摩藩との交渉のため、オーガスタス・レオポルド・キューパー提督に7隻からなる艦隊組織させ、自ら鹿児島向かったサトウウィリスとともにアーガス号に通訳として乗船していたが、交渉決裂して薩英戦争勃発したサトウ自身薩摩藩船・青鷹丸拿捕立会ったが(その後略奪にも加わっている)、その際五代友厚松木弘安寺島宗則)が捕虜となっている。開戦後青鷹丸焼却されアーガス号も鹿児島湾沿岸砲台攻撃参加市街地大火災目撃する1864年元治元年)、イギリスに帰国するか日本にとどまるか一時悩むが、帰任し駐日公使オールコックから昇進尽力することを約束されたので、引き続き日本留まることを決意したオールコックサトウ事務仕事から解放してくれたため、ほとんどの時間日本語学習につかえることなったまた、ウィリス同居し親交深めたオールコック日本国内攘夷傾向前年長州藩による外国砲撃幕府による横浜鎖港要求など)を軍事力用いてでも打破しよう考えていたが、7月長州藩伊藤俊輔伊藤博文)と志道聞多井上馨)がヨーロッパ留学から急遽帰国してきたため、サトウは彼らを長州まで送り届けた結局伊藤らは藩主毛利敬親説得できなかったが、このときからサトウ伊藤文通始まっている。下関戦争では四国艦隊総司令官となったキューパー提督付き通訳となり、英・仏陸戦隊による前田村砲台破壊同行し長州藩との講和交渉では宍戸刑馬と変名していた高杉晋作相手通訳務めた伊藤井上通訳として臨席)。

※この「薩英戦争前後」の解説は、「アーネスト・サトウ」の解説の一部です。
「薩英戦争前後」を含む「アーネスト・サトウ」の記事については、「アーネスト・サトウ」の概要を参照ください。

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