薩摩藩陰謀説
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西郷隆盛、大久保利通らを中心とする薩摩藩内の武力倒幕派による陰謀だとする説。 松平春嶽は事件翌日、松平茂昭にあてた書状で、龍馬と中岡が暗殺されたことについて福岡孝弟と話しているうちに、政治情勢から「土藩(土佐藩)尽力ニより芋藩(薩摩藩)の姦策已に破れたる形勢ナリ」と記している。木村幸比古はこれを春嶽と福岡が、薩摩藩の犯行だと思っていたことを示すとしている。また『改定肥後藩国事史料』巻七には「坂本を害し候も薩人なるべく候こと」と、薩摩藩の関与を伺わせる風聞が流れていたことが記されている。 国際法学者の蜷川新は、昭和9年4月『歴史公論』において、薩摩藩が龍馬暗殺に関与したことを唱えた。昭和27年(1952年)に出版した『維新正観』では次のような証言を紹介している。維新史料編纂係の植村澄三郎から聞いた話として「中島信行が近江屋の女中に尋ねると、暗殺犯たちの言葉にたしかに鹿児島弁の節があった」というものである。ただし、当時中島はいろは丸の件で長崎におり、現場に駆け付けるのは不可能だった上に、植村の史料も見つかっていない。 薩摩藩説の動機で取り上げられるものは、松平春嶽や勝海舟から影響を受けた龍馬は諸侯会議による新政府の設立を説いており、大政奉還を受け入れた徳川慶喜をそこに含めることを想定していた。そのため、武力倒幕と旧権力の排除を目指していた西郷隆盛と、新体制への穏健な移行を説いていた坂本との間に、慶喜の処遇をめぐる意見の相違が生じた。そのため大政奉還派である龍馬が邪魔になったというものである。この武力倒幕派の暗躍という説は、佐々木多門の書状などがある。 この説は実行犯が見廻組とした場合でも、薩摩藩が情報を与えるか、指示をしたという線で唱えられる。今井信郎が西郷によって助けられたという風聞が当時あり、また今井自身も西南戦争で西郷の救援に向かおうとしたという、今井の息子の証言がある。 しかし、龍馬自身が幕府大目付である永井尚志と談合するなど憚りのない行動を取っており、それを周囲に警告されているような状態では、たとえそのような情報は無くとも京都見廻組が龍馬の所在を難なく突き止められたであろうと考えられる。また、中岡慎太郎も武力倒幕派であり、薩摩藩家老である小松清廉も大政奉還を慶喜に迫っているなど様々な矛盾が生じる。そのため、大政奉還路線と武力倒幕路線の対立を必要以上に強調しすぎたきらいがあるというのが、歴史学上ではおおむね統一した見解となっている。 映画やテレビ・小説などではこの説を採用することも多い。特に、NHK大河ドラマでは、1974年の『勝海舟』で大久保利通を坂本暗殺の黒幕として描いて以来、この説を採用することが多くなっている。
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