薩軍主力北部進出と高瀬の戦い
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「西南戦争」の記事における「薩軍主力北部進出と高瀬の戦い」の解説
熊本城攻撃が始まった2月22日、神戸を発した第1旅団、第2旅団合わせて5600名は博多に上陸し、順次南下を開始する。24日、久留米で木葉の敗戦報告を聞いた野津鎮雄、三好重臣両旅団長は南下を急ぐ一方、三池街道に一部部隊を分遣した。歩兵第14連隊は石貫に進む一方で高瀬方面へ捜索を出した。 一方の薩軍は24日より増援部隊が次々と熊本より進発し、3方向から北上をしていた。 山鹿 - 野村忍介(5個小隊) 植木 - 越山休蔵(3個小隊)、池辺吉十郎(熊本隊主力) 伊倉 - 岩切喜次郎・児玉強之助ら(3個小隊)、佐々友房ら(熊本隊3個小隊) 25日未明、歩兵第14連隊は高瀬進出を企図して山鹿街道へ1個中隊を派遣し、本隊の3個中隊は高瀬道を進撃した。払暁には高瀬に無事に入った第14連隊はそのまま菊池川の堤防沿いに部隊を展開させ薩軍を待ち構えた。 第1第2旅団は25日には南関に入って本営を設けた。第1旅団の野津少将はただちに貴下の歩兵第1連隊長長谷川好道中佐指揮の4個中隊を高瀬へ増援に送る。その頃、征討軍が高瀬川の線に陣を構築するのを見た岩切らは高瀬川の橋梁から攻撃を仕掛け、熊本隊は渡河して迫間・岩崎原を攻撃した。しかし、岩切らは石貫東側台地からの瞰射に苦しみ、熊本隊も長谷川隊などの増援を得た第14連隊右翼に妨げられて、激戦対峙すること2時間、夜になって退却した。
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