薩閥の重鎮
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明治11年(1878年)3月28日、肺を患っていた妻の清が死んだ。ところが酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事が新聞に載った。黒田は辞表を提出したが大久保利通の説得でこれを撤回した。岩倉具視の秘書の覚書によると、伊藤博文と大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じた。川路は医師を伴って清の墓を開け、棺桶に身を乗りだして中を確認したのみでこれを病死であると結論付けた。黒田はこの頃より酒が過ぎることが多く、酔って怒気を発することがあった。開拓長官時代にも商船に乗船した際に、酒に酔って船に設置されていた大砲(当時は海賊避けのため商船も武装していた)で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがあり、これは示談金を払って解決した。同年5月に大久保が暗殺(紀尾井坂の変)されると、黒田は薩摩藩閥の最有力者とみられるようになった。 明治14年(1881年)に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため、官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このとき事業が赤字であったことを理由に、非常な安値を付けた。黒田は、事業には私利で動かない官吏出身者を充てるべきだとして優遇を弁護したが、払い下げの規則を作った大隈重信が反対した。黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はこれを薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるものだとして、激しく非難した(開拓使官有物払下げ事件)。大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治十四年の政変で大隈を失脚させた。しかし払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。また、この4年後の明治18年(1885年)、晩年の五代は、黒田と酒を交わした直後に容態が急変し、10日も経たぬうちに死去している。
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