薩閥の重鎮とは? わかりやすく解説

薩閥の重鎮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:43 UTC 版)

黒田清隆」の記事における「薩閥の重鎮」の解説

明治11年1878年3月28日、肺を患っていた妻の清が死んだ。ところが酒に酔って帰った黒田が、出迎えが遅いと逆上し妻を殺したのだという記事新聞載った黒田辞表提出した大久保利通説得でこれを撤回した岩倉具視秘書覚書によると、伊藤博文大隈重信が法に則った処罰主張したに対して大久保黒田そのようなことをする人間でないと保証する述べ自身腹心である大警視川路利良調査命じた川路医師伴って清の墓を開け棺桶に身を乗りだして中を確認したのみでこれを病死であると結論付けた黒田この頃より酒が過ぎることが多く酔って怒気発することがあった。開拓長官時代にも商船乗船した際に、酒に酔って船に設置されていた大砲当時海賊避けのため商船武装していた)で面白半分に岩礁射撃しようとして誤射し、住民殺害したことがあり、これは示談金払って解決した同年5月大久保暗殺(紀尾井坂の変)されると、黒田薩摩藩閥の最有力とみられるようになった明治14年1881年)に開拓使廃止方針が固まると、黒田開拓使官営事業の継続のため、官吏退職させて企業起こし、これに官営事業設備払い下げる計画立てた。このとき事業赤字であったことを理由に、非常な安値付けた黒田は、事業には私利動かない官吏出身者充てるべきだとして優遇弁護したが、払い下げ規則作った大隈重信反対した。黒田払い下げ計画新聞報道されると、在野はこれを薩摩出身政商五代友厚企みよるものだとして、激しく非難した開拓使官有物払下げ事件)。大隈情報流したせいだと考えた伊藤黒田薩長閥は、明治十四年の政変大隈失脚させた。しかし払い下げ中止になり、黒田開拓長官辞めて内閣顧問閑職退いたまた、この4年後の明治18年(1885年)、晩年五代は、黒田と酒を交わした直後容態急変し10日経たぬうちに死去している。

※この「薩閥の重鎮」の解説は、「黒田清隆」の解説の一部です。
「薩閥の重鎮」を含む「黒田清隆」の記事については、「黒田清隆」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「薩閥の重鎮」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「薩閥の重鎮」の関連用語

薩閥の重鎮のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



薩閥の重鎮のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの黒田清隆 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS