宮崎八郎とは? わかりやすく解説

宮崎八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/30 22:32 UTC 版)

宮崎八郎
宮崎八郎
生年 1851年
生地 日本肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市
没年 (1877-04-06) 1877年4月6日(26歳没)
没地 日本熊本県八代郡八代萩原堤(現・八代市
思想 自由民権運動
影響を受けたもの 中江兆民
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宮崎 八郎(みやざき はちろう、1851年嘉永4年)- 1877年明治10年)4月6日)は、肥後国出身の自由民権運動家。中江兆民との親交を重ね[1]、「九州のルソー」と呼ばれた[2]西南戦争西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。

生涯

肥後国玉名郡荒尾村(現・熊本県荒尾市)の郷士宮崎政賢(宮崎長兵衛/長蔵)・佐喜夫妻の次男として生まれる。弟に宮崎民蔵宮崎彌蔵宮崎滔天がいた。父には山東家伝二天一流を弟たちとともに習っている。1864年(元治元年)元服長州征伐に父とともに従軍する。時習館に通う。1870年(明治3年)上京。1874年(明治7年)『征韓之議』を提出する。

ルソーの『社会契約論』の部分訳である中江兆民の『民約論』に影響を受ける。1875年(明治8年)4月26日、熊本県植木町に植木学校(校長は平川惟一、八郎は学務委員)を設立したが10月末で閉校する[1]。東京の評論新聞社に入社。1877年(明治10年)、鹿児島県西郷隆盛私学校西南戦争をおこすと、民権家同士と熊本協同隊を結成し2月21日に川尻で薩摩軍に合流、桐野利秋のもとで共に政府軍を相手に戦う。4月6日、熊本県八代郡八代萩原堤(現・八代市)で戦死。

伝記

  • 上村希美雄『宮崎兄弟伝 日本篇』葦書房 上・下、1984年。全6冊
  • 山本博昭『近代を駆け抜けた男 宮崎八郎とその時代』書肆侃侃房、2014年

関連項目

脚注

  1. ^ a b 上村希美雄『夢翔ける』荒尾市宮崎兄弟資料館、1995年、13頁。 
  2. ^ 宮崎滔天 三十三年の夢松岡正剛の千夜千冊、1168夜、2006年12月30日

外部リンク


宮崎八郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 03:41 UTC 版)

翔ぶが如く」の記事における「宮崎八郎」の解説

肥後熊本出身青年、弟の一人宮崎滔天がいる。ルソー民約論』に感銘を受け、民権ないがしろにする太政官転覆目論む海老原評論新聞社に入社する他、熊本植木学校設立、さらに西南戦争勃発後は熊本共同隊を設立して西郷軍に従軍した

※この「宮崎八郎」の解説は、「翔ぶが如く」の解説の一部です。
「宮崎八郎」を含む「翔ぶが如く」の記事については、「翔ぶが如く」の概要を参照ください。

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