晩年・最期
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この事件を期に重盛は気力を失い、政治の表舞台にはほとんど姿を見せなくなる。宗盛もまた後白河院とは親しいため、これ以後も難しい立場にあったものの、宗盛が結果として平家一門の棟梁として台頭することになる。治承2年(1178年)2月には内大臣の辞任を申し出るが、中宮・徳子が懐妊したため、中宮を猶子としていた重盛の辞任は認められなかった。6月、重盛は着帯の儀式に出席する。徳子は11月に皇子を出産、皇子は翌月には言仁親王として立太子した。重盛は皇太子の養育係である東宮傅に推挙されるが固辞し、大炊御門経宗にその座を譲った。 治承3年(1179年)2月、重盛は東宮の百日(ももか)の祝に出席するが、病により家に籠もるようになる。3月には熊野に参詣して後世のことを祈ったという。やがて再び吐血するなど病状が悪化したため、5月25日に出家した。法名は浄蓮。6月21日には後白河法皇が、六波羅の小松殿を訪れて重盛を見舞っている。同月17日に清盛の娘・盛子も24歳の若さで亡くなっていたが、後白河法皇は盛子の相続していた摂関家領を自らの管理下に置き、平氏への圧力を強めていた。7月29日、ついに重盛は死去した。享年42。 死因については胃潰瘍のほか、背中にできた腫瘍、脚気などの説がある。10月、仁安元年(1166年)以来の重盛の知行国・越前が、異母妹の盛子のときと同じように後白河法皇によって没収された。これらのこともあって清盛と法皇の関係は完全に破綻、11月、治承三年の政変によって後白河院政は停止される。
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晩年・最期
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勘当が解けてから政宗と秀宗の仲は親密になり、和歌を交歓したり、「唐物小茄子茶入」と秘蔵の伽羅の名香「柴舟」が政宗から贈られ、これら政宗から秀宗に贈られた品は宇和島藩伊達家の家宝として秘蔵された(他に茶壷の銘冬寒、銘仙々洞などがあり、宇和島市立伊達博物館の企画展・特別展で見ることができる)。寛永13年(1636年)5月に政宗が死去し、6月に仙台の覚範寺で葬儀が営まれた際、秀宗は次男の宗時と共に葬儀に参列した。寛永14年(1637年)から翌年にかけて、島原の乱では幕命により派兵している。 寛永14年(1637年)頃より病床に臥すことが多くなったが、病気は中風だったという。このため、寛永15年(1638年)に世子であった次男の宗時が宇和島に帰国して「太守」「殿様」として政務を代行した。このため、歴代に宗時を入れている記述が見られることより、幕府からも実質的な当主は宗時であると認識されていた(『大武鑑』)。 秀宗晩年の宇和島藩では領内検地、そしてそれを基にした定免法(年貢の固定化)の採用、藩士給与についても従来の給地制(地方知行制)から蔵米制(米の現物支給)とした。慶安2年(1649年)2月5日には宇和島を大地震が襲い、翌年に長患いしていた中風を理由に療養を幕府より許されて宇和島に帰国した。 承応2年(1653年)に宗時が39歳で早世したため、三男で20歳の宗利が世子となる。その翌年からは藩と商人資本による新田開発が進められた。明暦3年(1657年)7月21日、世子の宗利に家督を譲って隠居した。8月16日には五男の宗純に伊予吉田藩を分知したため、宇和島藩は7万石、吉田藩は3万石となった。 明暦4年(1658年)6月8日に江戸藩邸で死去。享年68。死後の翌日、宮崎八郎兵衛・高島太郎衛門が、6月18日に神尾勘解由、6月23日に渡辺藤左衛門がそれぞれ殉死した。
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晩年・最期
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晩年・最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 09:10 UTC 版)
「ルキウス・アンナエウス・セネカ」の記事における「晩年・最期」の解説
62年の事実上の引退からセネカは文筆業に力を入れて、『神慮について(De Providentia)』や『善行について(De Beneficiis)』などの作品を残した。 64年のローマ大火に際して、ネロによって放火犯の一味として処断されたキリスト教指導者パウロとセネカが書簡をやり取りしていた、とされていたが、その書簡自体が全くの偽作であったと確定している。なお、ローマ大火の際にセネカは「ローマから離れて地方で暮らしたい」とネロへ要望したが叶えられず、病気と称して部屋から出ることを避けるようになった。 65年、ネロを退位させてガイウス・カルプルニウス・ピソ(en)を皇帝に擁立する陰謀計画が露見した。ピソを始めとした一味が捕らえられる中で共犯者の一人アントニウス・ナタリスがセネカが関与していると名指しした。ネロはセネカを尋問するべく役人を送ったが、セネカは曖昧な対応に終始したためネロはセネカに自殺を命じた。タキトゥスによると、セネカは始めにドクニンジンを飲んだが死に切れなかったため、風呂場で静脈を切って死に至ったされる。セネカが自殺したのは4月とされるが、日付は12日、19日、20日など諸説分かれる。なお、セネカは最期に以下のように語ったとされる。 ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない — タキトゥス「年代記」15.62 こうしてセネカは生前に「賢者の不動心について」などで賞賛していたマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシスと同様の最期を迎えた。妻パウリナ(en)もセネカと共に自殺を図ったが、これ以上の評判下落を恐れたネロによって阻止された。セネカがピソの陰謀に関与したかははっきりしないが、セネカの甥で詩人のマルクス・アンナエウス・ルカヌスが計画に関与し、ネロによって自害させられている。
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晩年・最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 07:11 UTC 版)
1990年代以降は形式上研究者として引退していたが、プリンストン大学の数学科の校舎にはナッシュの研究室があり、研究を続けていた。 1994年にゲーム理論に関する功績によりゼルテン、ハーサニとともにノーベル経済学賞を受賞。1999年にマイケル・クランドール(英語版)とともにスティール賞を受賞。この頃にはアリシアとの関係も元の状態に戻っており、2001年に再婚した。 世界中の大学や学会で講演、指導を行い、1999年にカーネギーメロン大学から名誉博士号(科学技術)を、2003年にフェデリコ2世・ナポリ大学から名誉博士号(経済学)を、2007年にアントワープ大学(英語版)から名誉博士号(経済学)を、2011年に香港城市大学から名誉博士号(科学)を、それぞれ贈られている。 2012年にアメリカ数学会のフェローに選出された。 2015年5月19日にリーマン多様体の埋め込み問題に関する功績によりニーレンバーグとともにアーベル賞を受賞。オスロで行われた授賞式からの帰路、5月23日にニュージャージー州でアリシアと共に乗っていたタクシーが事故を起こし、夫婦は共に車外に投げ出され死亡した。ナッシュは86歳、アリシアは82歳であった。
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